2007年06月28日(木) 01:14
|
序章人里遠く離れた険しい山の奥深く 泉のほとりに慎ましく 何千年にたった一度だけ 光り輝く可憐な黄金色の花びらを開き 恍惚の香りを漂わせ ひっそりと咲き誇る花の事を 人々は酔中花と呼ぶ 未だ誰も見た者はないという
しかし 真相は 人里近くのどこにでもある山の中 泉のほとりに慎ましく 何千年もの昔から 可憐な無色透明の花びらを開き あたり一面に 何とも言えない微かな香りを漂わせ ひっそりと咲き続ける花の事を 酔中花という 今までに何人かの人間が その花を見る事ができた が 花は何も知らずに ただ無心に咲いているだけであった 今もなお永遠に咲き続けている
|
2007年06月28日(木) 20:14
第一部 月影
1
皆さん、こんにちわ。
あたしの名前はラーラ。
人間たちは酔中花と呼んでるらしいわ。
確かに、あたしはお酒は好きよ。でも、毎日、二日酔いでフラフラしてるわけじゃないのよ。何よ、酔中花って‥‥‥
まるで、一升ビンの中で咲いてる花みたいじゃない。まあ、それもいいけどね。
とにかく、あたしはラーラって名前があるの。覚えといてね。
誰がつけてくれたのか、あたし、覚えてないんだけど、物心ついてから、ずっとラーラって呼ばれてるわ。
あたしもラーラって名前、気に入ってるの。
何となく、可愛いでしょ。あたしにぴったりよ。
多分、お父さんとお母さんがつけてくれたんでしょうけど、二人とも、あたし、知らないの。
会いたいとは思ってるけど、別にどうでもいいの。
だって、あたしの一生って、ほんとに短いんだもの。お父さんやお母さんを捜すより、もっと楽しく生きようと思ってるの。
二人にはとても感謝してるわ。きっと、お父さんもお母さんも、あたしの気持ち、わかってくれるわ‥‥‥
どうも、湿っぽくなっちゃうな‥‥‥
楽しくやりましょう。
だって、あたしの一生って、たった一日しかないのよ。
朝生まれて、夕方には死んじゃうの。
ねえ、どう思う?
あまりにも短すぎると思わない?
あたしだって、もっともっと生きたいわよ。でも、しょうがないしね。
その短い時間を精一杯、生きなきゃね。
人間なんて、あたしより、もっとずっと短いんでしょ。
あたしがほんの瞬きをした位の時間が、人間の一生なんですってね。
ほんと、可哀想だわ。
そんな短い時間で一体、何をするのかしら。
でも、人間にしたら、それが丁度いい時間なのかもね。
人間から見たら、あたしなんか何千年も生きてるお婆ちゃんね。
でも、勘違いしないでよ。
いくら、人間時間で何千年も生きてるからって、あたしはまだ、うんと若いんだから。
ほんと、見せてあげたいわ。若くて綺麗なあたしを‥‥‥
さてと、何か面白い事ないかな‥‥‥
2007年06月29日(金) 12:45
2
都会の夜。ネオンサインと車のライトが交差しては流れる。
ネオンサインの光の中でうごめく人間の波。
狭い路地に小さな飲み屋が並んでいる。
氾濫した音の中をさまよう酔っ払いたち。
チンピラ風の男が勢いよく走って来る。
「火事だぞ。おい、火事だ! 火事だ!」とわめきながら走り去った。
酔っ払いたちはわめきながら男の後を追う。
「どこだ? おい、どこだ?」
「火事だ! 火事だ!」
3
小さな食堂から火と煙が立ち昇っている。やじ馬たちが現場を囲むように面白そうに見物している。
家の中では店の者たちが真剣な顔をして火を消そうとしている。
「おい、早く消せよ!」と片手に持った包丁を振り上げながら、真っ赤な顔をした男が怒鳴った。「俺の店に燃え移ったら、ただじゃおかねえぞ!」
「何だ、おめえ、隣の肉屋じゃねえか」と缶ビールを飲んでいた男が言った。「こんなとこで見てねえで手伝ったらどうだい」
「馬鹿野郎! 俺が火を出したわけじゃねえや。何やってんだ。早く消せ!」
肉屋は包丁を振り回しながら、食堂の前で怒り狂っている。やじ馬たちは思い思いに目の前で起こっているドラマを批判しながら観賞していた。
「ちぇっ、つまらねえ。大した事ねえじゃねえか。うちでテレビを見てた方がよかったぜ。もっと景気よく燃えねえのか」
「二階にまだ子供がいるんだってよ」
「へえ、そういや、このうちには可愛い女の子がいたっけな。まだ、殺しちまうには可哀想だな」
「今のうちに死んだ方が、あの子のためさ」
「消防車はどうしたんだい? まだ来ねえじゃねえか」
「馬鹿め、そう早く来てもらっちゃあ、つまらねえよ。途中で酒でも買ってくりゃよかったな。火事見酒なんて乙なもんだぜ」
煙に包まれた二階から、女の子の悲鳴が聞こえて来る。
「助けて! だってよ」若い巡査が中年の巡査に言った。「泣いてますよ。先輩、助けてやった方がいいんじゃないですか」
「おめえこそ、助けてやったらどうだい。有名になりてえって、いつも言ってるじゃねえか。今、火の中に飛び込んだら、明日の新聞にでかでかと載るぜ」
「よして下さいよ。こんなちっぽけな火事くらいで新聞なんか載りませんよ」
「いい匂いがするわ」と買い物袋をさげた若い奥さんが隣の奥さんに言った。
「そうね、勿体ないわね。食べ物、みんな焼けちゃったのよ」
「うち、まだ、お夕食前なのよ。今日は久し振りにお肉でも焼こうかしら」
火はだんだんと消えてくる。肉屋の親爺も安心して自分の店に帰って行った。
水浸しの食堂の中では従業員の女の子が汗と水でびっしょりになりながら、バケツを持って階段を行ったり来たりしていた。
親爺は疲れ切って、唯一、焼け残った椅子に腰を下ろし、燃えて穴の空いた天井をボケッと見ている。
おかみさんは泣いている娘を抱きながら一緒に泣いていた。
「そろそろ終わりらしいな」
「畜生、石油でもぶっかけてやりてえな」
火はほとんど消えた。遠くの方からサイレンの音が近づいて来た。
二人の巡査は高みの見物から、急にお巡りの顔に戻り、しかめっ面をしながら現場の中に入って行った。
やじ馬たちはブツブツ言いながら散って行った。
2007年06月30日(土) 19:45
4
イーゼルの前に座り込んで絵を描いている昭雄。
キャンバスには苦しみに歪んでいる女の顔が描いてある。まだ未完成。筆を口にくわえ、キャンバスから離れて絵を見つめる。首を傾げたまま、しばらく動かない。
六畳一間に台所だけのアパートの一室、窓からは街のネオンの光と酔っ払いの声、飲み屋から流れる下手くそなカラオケの音などが入って来る。壁には何枚もの油絵が無造作に飾ってある。
錙広い草原にポツンと赤ん坊が泣いている絵。
錙妖精の格好をした麗子の肖像画。
錙小川に三日月の影が映り、大きな石に黒く二つの人影のある風景画。
錙足を組んで椅子に腰掛けている裸婦。
錙月夜の晩に祈りを捧げている着物姿の女の図。
そして、未完成の作品が壁に立て掛けてある。
「ただいま」と赤ん坊をおぶった麗子が帰って来た。
「遅くなってごめんなさい。ねえ、あなた、今、火事があったのよ。ほら、銀行のちょっと先に食堂があるでしょ。そこから火が出たの。わりとすぐに消えちゃったけど凄かったわ。風がなかったから、よそのうちには移らなかったけど、あの食堂はほとんど燃えちゃったわ。それが面白いのよ。消防車が着いた時にはもう、火はほとんど消えてたの。それなのに水を撒いてんのよ。だから、もう水浸し。隣のお肉屋まで、びっしょりよ。親爺さん、かんかんに怒ってたわ。それで、水浸しになったお肉を貰って来ちゃった。すぐ用意するわね」
麗子は赤ん坊を部屋の隅に寝かせて、台所で買い物袋を開けた。
昭雄は絵の道具を片付ける。
「どう、いい絵、描けた?」
「どうも、うまくいかんよ」
「そう‥‥‥ねえ、あなた、今夜、何か面白いテレビある?」
「ああ、あるよ。九時から『殺意』が」
「ああ、あれ。実際にあった話なんでしょ」
「何だってあるだろ、今の世の中」
「でも、怖いわ。理由もないのに殺されるなんて」
「生きてるのに理由がないんだから、死ぬのにも理由なんかいらないさ」
「そうね‥‥‥今、何時?」
「八時半」
「もうすぐ、できるわ」
5
テレビでは『殺意』をやっている。
食卓を囲んでテレビを見ながら食事をしている昭雄と麗子。
「この犯人、今、どうしてるのかしら?」
「外国にいるらしいよ。大分、儲けたらしいからな」
「そうね、ベストセラーだもんね」
「大したもんだよ。刑務所にいて大金持ちになったんだからな」
「でも、たった三年でしょ。また、人を殺したりしないのかしら」
「また、外国でやるんだろ。今度はハリウッドで映画になるかもしれないな」
「あなた、もう、いいの?」
「ああ」
「最近、少し変よ。どこか、体の具合でも悪いんじゃないの?」
「何でもないよ」
「そう‥‥‥でも、人を殺して大金持ちになるなんて、いいわね」
「普通の奴らじゃ、できやしないさ。あいつは天才なのかもしれないよ」
「ねえ、もし、この部屋に突然、入って来たらどうしましょう」
「まさか、そんな事はないさ」
「だって、何も理由なんてないのに関係ない人たちを十八人も殺して来たんでしょ」
「殺しなんて日常茶飯事だろ。いちいち気にしてたら生きて行けやしないよ」
「そうね」
二人はテレビの画面に熱中してくる。
2007年07月01日(日) 12:18
6
テレビの画面。
都会の夜。
ヨレヨレのコートを着て巨人軍の野球帽をかぶっている男(健二)、繁華街をさまよい歩いている。
健二、あるマンションの前まで歩いて来る。酔っ払って足がフラフラしている。
マンションを見上げる。いくつかの窓から明かりが漏れている。
健二、マンションに入って行く。
マンションの中、ある階の廊下。
健二、エレベーターから出て来て、適当なドアをノックする。
返事はない。隣のドアをノックする。
女の声「あなたなの?‥‥‥遅いじゃない」
ドアが開く。健二、中に入る。ドアが閉まる。
マンションの一室。
ドアにもたれて女を眺めている健二。
女はナイトガウンをはおり、片手にウィスキーのグラスを持って立っている。
女 「あなた、誰?」
健二「‥‥‥」
女に近づいて行く健二。後ずさりする女。
テーブルに高級なスコッチとグラスが置いてある。
ステレオから流れるショパンのピアノ。
女 「あなた、誰なの?」
健二「‥‥‥(女を見つめ、ニャッと笑う)」
女 「わたしに何の用です?」
健二「用?」
健二、テーブルの前のソファーに座り込み、スコッチをグラスに注ぎ、一息に飲み干す。
女 「何の用なの? 早く言ってよ」
健二「いい酒だ」
部屋の中を見回す健二。グラスにもう一杯、スコッチを注ぎ、一口なめる。
健二「あなたに死んでもらいたいんですよ」
女 「冗談、言わないでよ」
健二「冗談ではありません。あなたは選ばれたんですよ」
女 「何、言ってんの。どうして、わたしが選ばれなければならないのよ」
健二「それが、あなたの運命なのです。運命に逆らってはいけません」
女 「勝手な事、言わないでよ。わたしはまだ生きていくわ」
健二「それはできません。僕はあなたを殺さなければならないのです。それが、僕に与えられた運命なのです。運命に逆らうわけにはいきません」
グラス越しに女を見ている健二。急に笑い出す女。
女 「あなた、気違いでしょ。病院、抜け出して来たのね?」
健二「僕は正常です。世の中の方が狂ってるんですよ」
笑っている女。
女 「そうね、きっと、あなたは正常よ。でもね、わたし、暇じゃないの。あなたと遊んでる時間はないのよ。もう病院にお帰りなさい」
健二「そう急ぎなさんな。のんびりしましょう。ゆっくり座って、このうまい酒を楽しみましょう」
健二、静かにスコッチを飲む。
女、健二の向かいに腰を下ろし、健二を見ながら、今まで手にしていたスコッチを飲む。
健二、女のグラスにスコッチを入れてやる。
健二「ねえ、あんた、いい女だね」
健二、自分のグラスを女のグラスに当て、女の顔を見て笑う。
女 「そう‥‥‥ありがとう」
女、グラスを手に持ち、ソファーの背にもたれ、健二を見つめる。
女 「わかったわ。あなた、小池さんに頼まれたんでしょ。ね、そうでしょ。お金ならあげるわ」
健二「この酒は実にうまいですね。あんたは綺麗だし、音楽も悪くない‥‥‥」
女 「ね、いくら欲しいの? 五十万でいいでしょ。わたし、百万なんて持ってないわ、本当よ」
女、グラスを置いて立ち上がろうとする。
健二「僕は小池さんなんて知りませんね。それに金なんて欲しくない。欲しいのは、あんたの命だけですよ」
女 「気違い! 警察、呼ぶわよ」
女、立ち上がり、電話の所に行く。
健二、テーブルの上のタバコケースからタバコをつまみ出し、口にくわえる。
健二「早く、電話したらどうです。僕は止めやしませんよ。ただし、警察だって暇じゃない。あんたがわめいたって、やって来やしませんよ。もっとも、あんたが死んでからなら、サイレン鳴らして喜んで飛んで来ますけどね。死んでから連絡しなさい」
女 「本当に警察、呼ぶわよ」
健二「どうぞ、ご自由に」
女、受話器を取るが、ためらっている。
健二、タバコに火を付け、煙を吐く。
女、受話器を戻す。
女 「お願い、出て行って‥‥‥」
健二、タバコを灰皿でもみ消して立ち上がり、穏やかな顔でゆっくりと女の方に近づく。
女、後ずさりするが、壁の所で健二に捕まる。
女 「助けて、何でもあげるわ。宝石なら、あそこにあるわ。本当は百万円もあるのよ。ほら、あの中に隠してあるわ。ね、みんな持ってっていいわ」
健二「これは避ける事のできない運命なんですよ。気持ちよく諦めて下さい」
健二、女の首にゆっくりと手をかける。
女 「ね、冗談はやめて。あなたに何でもあげるわ。わたしの体も好きにしていいわ」
女、ガウンを脱いで、健二に抱き着く。
女 「ね、わたしを抱いて、ね、お願い‥‥‥」
健二、顔色も変えずに、少しづつ手に力を入れていく。
女 「お願い、命だけは助けて‥‥‥」
健二、女の首を絞めていく。
女 「やめて! 気違い!」
あばれる女。
女 「誰か来て!」
7
「あなた、どうしたの?」と麗子が昭雄を見て言った。
昭雄は頭を抱えるようにして唸っている。
突然、昭雄の脳裏にテレビの画面と同じシーンが浮かんで来た。自分がまだ子供の頃、見たシーンなのか、それとも、生まれる前の事なのか、よくわからないが、はっきりと、ある男がある女の首を絞めているシーンが浮かんで来た。しかも、その男の顔も女の顔も確かに見覚えがあった。名前まではわからないが、確かに、その二人の事は知っていた。そして、首を絞められて苦しみもがいている女の顔がありありと見えて来るのだった。昭雄はこんな幻想など吹き飛ばそうと努力してみるのだが無駄だった。
「どうしたの、大丈夫?」という麗子の声が遥か遠くから聞こえて来るような気がした。
「助けて!」テレビの中の女が最期のかすれた悲鳴をあげた。
「やめてくれ!」昭雄は叫んだ。そして、麗子の首を両手でつかみ、自分では意識せずに麗子の首を絞めていた。
「冗談はやめてよ。ね、あなた、どうしたの? 苦しいわ‥‥‥ちょっと、やめてったら‥‥‥」麗子の声が脳裏から消えない女の悲鳴とだぶった。
女はぐったりとして倒れた。
昭雄の脳裏から幻影は消え去った。
健二は倒れている女を無表情に見下ろしていた。静かに流れるショパンのピアノ。
麗子は食卓の上にぐったりと死んでいた。
部屋の隅では赤ん坊が泣いている。
窓の外からは酔っ払いのわめき声と飲み屋から流れる音楽。
昭雄は呆然とテレビを見ていた。
健二はスコッチをラッパ飲みしながら、夜の街をさまよい歩いていた。
2007年07月02日(月) 18:48
8
早朝の都会。
主役のいないコンクリートの長い廊下。
新聞配達の兄ちゃんが新聞を投げながら走って行く。
アパートの二階から、気持ちよさそうに寝ている赤ん坊をおんぶした昭雄が出て来る。
ひっそりとした繁華街。狭い路地の両側に並ぶゴミ袋の山。
昭雄は地下鉄の入口に消えて行く。
電車の中、不器用に赤ん坊にミルクを飲ませている昭雄。
疲れた顔の人々が無関心に昭雄と赤ん坊を見ている。
窓から見える田舎の風景。
昭雄と赤ん坊、山道を歩いている。
歌を競い合っているヒバリとウグイス。
カゴを背負った農婦、昭雄とすれ違う。穏やかな顔で頭を下げる。昭雄も真似をする。
赤ん坊は昭雄の背中ではしゃいでいる。
空を見上げる昭雄。
あまりにも空が青すぎる。あまりにも太陽がまぶしすぎる。そして、すべてが、あまりにも自然すぎると思った。
9
広い座敷の真ん中で、赤ん坊は大きな布団の中で夢見るように眠っている。
隣の部屋では昭雄が麗子の父、母、祖母と一緒に食卓を囲んで酒を飲んでいる。
「やっぱり、麗子には都会の空気は合わなかったんだね」と祖母が悲しそうに言った。
「それにしたって、あんなに若いのに死ぬなんて‥‥‥」と母親は涙を拭く。
「都会なんて、人間の住む所じゃねえ」と父親はコップ酒を飲み干した。「まったく、気違えばかりだ」
昭雄は父親のコップに酒を注いでやる。
「ありがとう。あんたもあんな都会なんかにいないで、ここにいればいい」
「そうですよ」と母親。「静かな田舎にいた方がいい絵が描けるでしょうに」
「ええ、そうですね」と昭雄は言う。
「あなたも色々と疲れたでしょう。しばらく、ここで、のんびりした方がいいですよ」と祖母は言った。
「英雄だって可哀想ですよ。お母さんがいなくなって、そして、今度はお父さんとも離れて暮らさなけりゃならないなんて‥‥‥」母親はハンカチて目を押さえながら、眠っている英雄の方を見ている。
「すみません」と昭雄。「英雄の事、よろしくお願いします」
「あの子だと思って育てますよ‥‥‥心配しないで、死んだ麗子のためにも、いい絵を描いて下さい」
2007年07月03日(火) 12:49
10
ねえ、ちょっと聞いて。
どうして、人間て、今、こんなにもいっぱいいるの?
あたしが生まれた時なんて、ほんの少ししかいなかったわ。でも、みんな、いい人間ばかりだった。だって、みんな、あたしの事、ちゃんと気づいてくれたわ。みんな、あたしの事、綺麗だとか可愛いって言ってくれたのよ。でも、今の人たちは何? あたしの前を通ったって、全然、あたしの事なんて見てくれないわ。
いつから人間はめくらになっちゃったの?
何を考えながら生きてるんだか知らないけど、難しい顔なんかしちゃって、みんな、足元ばかり見て歩いてるわ。足元を見なくちゃ歩く事もできないのかしら。そのくせ、石につまづいて転ぶんだから、どこに目がついてるんだろ‥‥‥どうせ、大した事、考えてないんでしょ。自分のご飯より他人の方が多い、少ないとか、うまそう、まずそうだとか、自分の巣の方が他人より大きい、小さいだとか、自分の方が他人よりも無駄な物をいっぱい持ってるとか、他人から偉いと思われたいとか、結局、自分の事しか考えてないんでしょ。
ちゃんと目がついてるんだから、もっと色々な事を見なけりゃ損だよ。勿体ないよ。まるで、望遠鏡を覗いてるみたいにさ、ほんの一部しか見ないなんて。それに、もっと悪いのは、色の付いた望遠鏡を覗いてる人間もいるね。これなんか、最悪だよ。もう救いようがないね。もっと、もっと大きいんだよ、世の中っていうのは‥‥‥それに綺麗だしさ。ほんと、楽しくやらなきゃ。
あたしがこんな事、言ってみたってしょうがないか。今まで、望遠鏡で世の中を見て来た人間が、急に望遠鏡をはずしたら視界が広くなりすぎて、どこを見たらいいか、わかんなくなっちゃうね、きっと‥‥‥
でもね、最近、ほんと、あたしに気がついてくれる人間、少ないよ。少なすぎるよ。それに最近はほとんど、お爺ちゃんだよ。若い人なんか、全然、見ようともしない。情けないな。もっと、しっかりしなくちゃ駄目だよ。
そうね、この前、来た若い人っていえば、確か、お坊さんだったわ。人間の時間にしたら、かなり昔になるんでしょうね。そのお坊さん、お経を唱えながら、怖い顔して山に登って来たわ。勿論、あたしには気がつかなかったけど面白かったわ。そのお坊さん、なかなか、いい男だったし、真剣に困っている人たちの事を考えてたの。あたし、彼を色々とからかってやったの。お坊さんてなぜか、女の人嫌いでしょ。だから、あたし、人間の女に化けて色々と彼を悩ませちゃった。ほんと面白かったわ。でも、彼、山を下りる時は晴れ晴れとさっぱりした顔をして、ちゃんと、あたしに気づいてくれて、あたしに合掌までしてくれたのよ。あたし、もう嬉しくて、また、人間に化けて彼の後をついて行こうかなって考えたくらいよ‥‥‥ほんと、いい男だった‥‥‥もう、とっくの昔に死んじゃったんでしょうね。山から下りて、彼が何をしたのか、あたしは知らないけど、きっと、みんなのために頑張ったんでしょうね‥‥‥
あ〜あ、人間の命なんて短いのね‥‥‥
あっ、誰か来る。若い男だわ。スケッチブックなんか抱えてるわ。絵画きの卵ってとこかしら。あまり、人相、よくないな。何か悪い事でもして来たのね。自分の心に反する事をして来た顔だわ。あんな顔してたら、あたしに気づくはずはないわ。まだ若いのに可哀想ね。彼はきっと、この先、ひどい世界をさまよい歩く事になるわ‥‥‥あっ、あたしの前で止まった。やっぱり、あたしには気づかないわ。山の方を見ている。彼、わりと可愛いじゃない。そうだわ、もし、彼が泉の水を飲んだら、助けてやってもいいわね‥‥‥どうかな、飲むかな?
まだ、山の方を見てるわ。やっと、歩きだした。泉の前を通る。チラッと泉を見るけど、そのまま行くのかな‥‥‥いえ、荷物を下に置いたわ‥‥‥飲んだ、飲んだわ‥‥‥まだ、見込みあるじゃない。よし、決まりね。彼と遊ぼう。
あっ、そうだ。その前に彼を若返らせなくっちゃ。今の彼じゃ、もう立ち直れないわ。せめて、罪を背負っていない頃、人間時間で三年前まで戻しちゃお。
2007年07月04日(水) 12:22
11
泉の水を両手ですくって飲んでいる昭雄。
飲み終わって、しばらく呆然としているが、我に返って荷物を持つと山道を歩いて行く。
鳥の鳴き声。
虫の鳴き声。
川のせせらぎ。
12
滝のある風景。
昭雄は石に腰掛け、スケッチをしている。スケッチブックには風景とはまるっきり違う抽象的な絵が描かれてある。
昭雄は子供の頃の自分を見つめていた。
昭雄の祖父、二郎は絵画きだった。子供の頃、昭雄は二郎のアトリエに行っては遊んでいた。それは古い大きな家の中にある薄暗い部屋だった。壁には色々な絵が飾ってあり、テーブルの上には絵の具や筆が散らかっていた。子供の頃の昭雄にとって、あの油絵の具の匂いが、何とも言えず秘密めいた感じで好きだった。
ある日、昭雄が二郎のアトリエに行った時、二郎は滝のある風景を描いていた。
「それ、どこ?」と昭雄は聞いた。
「お爺ちゃんの思い出の場所だよ」二郎は優しい目で昭雄を見ながら言った。
「どこにあるの?」
「お爺ちゃんの心の中にあるんだよ」
「ふうん‥‥‥」勿論、昭雄にはわからなかった。でも、きっと、この風景はどこかの山の中にあるんだろうと思った。
昭雄は壁に掛けてある若い女の肖像画を見た。優しそうで綺麗な人だと思った。
「この人、誰?」
二郎は筆を止めて振り返った。「ああ、それは、お前のお婆ちゃんだよ」
「随分、若いね」
「うん、若い時にね、病気をして死んじゃったんだよ」
「お婆ちゃんもその場所、知ってるの?」昭雄は二郎が描いている絵を指さして聞いた。
「うん」二郎は若い頃の妻の顔を苦しそうに見つめていた。「お婆ちゃんも知ってるよ」
「僕も大きくなったら、そんな山を絵に描こう」
「そうか‥‥‥お前も絵画きになるか」二郎はまた優しい目をして昭雄を見ながら、何度もうなづいていた。
「僕、絵画きになるよ」
二郎が描いていた絵と今、昭雄が見ている風景が重なる。
13
「疲れたわ」と椅子に座ってポーズをとっている夕子が言った。
「もう少しだよ」と昭雄は夕子を描いている。
「あたし、うまく描けてる?」
「うん‥‥‥」
秋の海、波打ち際を歩いている昭雄と夕子。
夕子、昭雄に水をかける。
「つめてえ‥‥‥こらっ」
笑いながら逃げる夕子。
追いかける昭雄。
夕子を捕まえる昭雄。昭雄に捕まる夕子。
笑う二人。
抱き合う二人。
海に落ちる夕日。
二十一本のローソクが燃えている。
ローソクの光りに浮かぶ幸せそうな昭雄と夕子の顔。
夕子、ローソクを吹き消す。
「おめでとう」
「サンキュー」
グラスとグラスが「チン」と鳴る。
夕暮れ時の公園。
噴水のそばのベンチに座っている昭雄と夕子。
「今日の映画、よかったわね」
「うん‥‥‥よかった」
「ラストの別れのシーン、素敵だったわ」
「そうかな‥‥‥ちょっと、物足りなかったような気がするけどな」
「そんな事ないわよ‥‥‥映画のような別れ方したら素敵でしょうね」
「現実と映画は違うさ」
「そうね、違うわね。でも、あなた自身、あまり現実的じゃないみたいよ」
「そんな事ないさ」
「でも、あなたはそれでいいのよ」
「夕子‥‥‥お前、やっぱり‥‥‥あいつと一緒になるのか?」
「ええ。あたしとあなたは結局、うまく行かないみたい。きっと、そういう運命なのよ」
「‥‥‥」
「もう、あなたとは二度と会わないと思う」
「‥‥‥わかったよ」
「元気で‥‥‥」
「うん、元気でな」
夕子、立ち去る。
「さよなら‥‥‥」
一人残る昭雄。
辺りは暗くなり、街灯の光の中で一人座っている昭雄。
昭雄は石の上に空を見上げて寝ている。
スケッチブックには夕子の顔が描いてある。
昭雄は起き上がり、スケッチブックの夕子の顔を見つめた。
「馬鹿野郎」と小さく呟くと夕子の顔を破き、丸めて滝に向かって投げ付けた。
2007年07月05日(木) 13:02
14
山道を歩いている昭雄。
行き止まりにぶつかり、首を傾げながら来た道を戻る。
草に隠れた細い道を歩いている昭雄。
辺りは暗くなりかけている。
道がなくなり、目の前に崖が現れる。崖の下を覗く昭雄、仕方なく、来た道を戻る。
夜になり、道もない森の中をさまよい歩く昭雄。
目の前を白い人影が通り過ぎた。昭雄は後を追って人影に近づく。
女である。白いギリシャ時代の着物のような物を着ている。
「ちょっと、すみません」と昭雄は声を掛けた。
振り返る女。ラーラである。ラーラが昭雄をからかおうと人間の姿をした妖精に化けている。
「道に迷ってしまったんですけど、月見村はどちらでしょうか?」
ラーラ、昭雄を上から下まで眺めてニコッと笑う。
「月見村はどちらか、ご存じありませんか?」
「あなた、人間?」とラーラはとぼけて聞いた。
「えっ?」
「人間なのね」
「ええ、人間ですけど、お化けにでも見えますか?」
「いいえ‥‥‥わたし、人間と話をするの、初めてなのよ」
「えっ? あなたは人間じゃないんですか?」
「ええ、わたしはこの山の精です」とラーラは白い服をなびかせて踊り出す。
どこから、ともなく静かに音楽が流れて来て、二人の回りを妖精たちが踊りだした。昭雄には何も見えないし、ただ風の音しか聞こえない。
「からかわないで下さいよ。月見村はどっちです?」
「さあ?」とラーラは昭雄にウィンクをした。
「あなたは何してるんです、こんな所で?」
「散歩よ」
「今頃?」
「そうよ、今日はいい天気じゃない。綺麗な三日月が出てるわ」
昭雄、三日月を見てからラーラの顔を見る。昭雄にはラーラの存在が理解できない。理解できないが彼女に興味がある。こんな夜、山の中を一人で散歩している女の人がいるわけがない。しかも、古代調の服を着て、自分は山の精だと言う。俺はキツネにでも化かされているんだろうか?
ラーラは微笑を浮かべながら昭雄を見ていた。
「いつも、今頃、散歩してるわけ?」
「ええ、そうよ」
「月見村はどっちです?」
「知らないわ」
「あなたはこの山に古くからいるんでしょ?」
「そうね、そうかもしれないわ。でも、まだ、いないかもしれない」
「何言ってんです。あなたは気違いですか?」
「気違い? わたし、人間じゃないのよ」
「月見村は? 教えて下さいよ」
「月見村がどうしたの?」
「帰るんです」
「なぜ?」
「なぜって、そこに泊まるんです」
「なぜ?」
「別に理由なんてないですよ」
「それじゃあ、帰ったってしょうがないじゃない」
「あなたはどこに住んでるんです?」
「この山よ」
「山のどこ?」
「決まってないわ。どこでもいいのよ」
「なぜ?」
「理由はないわ」
「馬鹿な事、言ってないで教えて下さいよ。あなただって、これから家に帰って寝るんでしょう。僕はもう疲れてるんですよ。早く、宿に帰りたいんです」
「わたしには家なんてないわよ」
「それじゃあ、どこで寝るんです?」
「眠くなった所で寝るわ」
「へえ、毎日、野宿してるわけですか?」
「野宿? それが自然じゃないの? あなたはなぜ、帰る理由のない所にわざわざ帰らなければならないの? わたしには行く所はあるけど、帰る所なんてないわ」
「そういえばそうだけど‥‥‥」
「ところで、あなた、本当に人間なの?」
「さあね、人間である理由は別にないけど、やっぱり人間でしょう」
「不思議ね、あなたにはわたしが見えるのね?」
「見えますよ、頭の先から足まで‥‥‥でも、よく、そんな薄着で寒くないですね‥‥‥まさか、幽霊じゃないでしょう?」
「違うわ。幽霊は過去のもの。わたしは未来のものよ」
「未来?」
「あなたはきっと、わたしの先祖なのよ」
「よせやい、馬鹿馬鹿しい」
「それじゃあ、あなた、わたしの仲間が見える?」
「仲間?」
「ほら、あそこで踊っているでしょ」
「‥‥‥何もいないじゃないか」
「あなたの名前は?」
「自分から先に言えよ」
「わたしにはまだ名前がないのよ」
「記憶喪失にでもなったのか? 嘘ばかりつくなよ」
「ねえ、教えて」
「石山昭雄」
「イシヤマアキオ‥‥‥わかった。わたしのお爺さんよ、あなたは」
「あんた、やっぱり狂ってるな」
ラーラは片手を胸に当てて昭雄を見ている。
「あなたに面白いものを見せてあげるわ。ついてらっしゃい」とラーラは言うと山奥の方に歩き出した。
「何だい? 面白いものって」昭雄は立ったまま、ラーラの後ろ姿に尋ねた。
「何してるの? 怖いの? 早く来ないさいよ」
ラーラは後を振り返りもせず、さっさと歩いて行く。昭雄は彼女に吸い込まれるかのように彼女の後を追った。
15
西の空に三日月がいる。
山の中の細道をラーラと昭雄が並んで歩いている。月の光で昭雄の影はできるがラーラの影はない。
昭雄はラーラの横顔を見た。彼女は何かを考えているような顔をしていた。
「あんた、頭はちょっとおかしいけど、わりと美人だね」
「ありがとう」とラーラはニッコリと無邪気に笑った。「あなた、奥さんを殺して来たんでしょ?」
「何言ってんだよ」昭雄には、とても彼女の話の飛躍にはついて行けない。
「俺はまだ独り者だよ」
「そう、まだ殺してないの」
「俺は気違いじゃないぜ。人なんか殺すわけないだろう」
「ところが殺すのよ」
「殺すわけない」
「あなたは奥さんを殺すの」とラーラは決めつけた。
「そうかい‥‥‥俺はあんたが殺したくなってきたよ」
「それは無理よ。わたしはまだ存在してないもの」
「俺の前に実際にいるじゃないか」
「あなたがいると思ってるだけよ」
「それじゃあ何か、俺はこんな山の中で一人芝居をしてるわけか? それじゃあ、まるで、俺は気違いじゃないか」
「そうかもね‥‥‥でも、もしかしたら、あなた自身も存在してないんじゃないの。ただ、いると思い込んでるから、いるだけなのよ」
「ふん」と昭雄は言うとラーラの肩を抱いた。
「やっぱり、ちゃんと存在してるじゃないか」
「あなたがいると思っている限り、わたしは存在してるわ」
「しかし、随分、冷たいな」
「人間じゃないもの」
昭雄は薄気味悪くなって、ラーラから手を離す。おびえたような目でラーラを見る。
「怖がらなくても大丈夫よ。あなたを食べたりしないから」とラーラは昭雄の肩にさわる。
「ちょっと待ってくれよ」と昭雄はラーラの手を払う。「本当に食べないでくれよ」
ラーラはニコニコしている。
「一体、俺をどこに連れて行くつもりだ?」
「血の池よ」
2007年07月06日(金) 15:35
16
ラーラと昭雄は森の中から、小川のほとりに出て来た。
辺りは月の光に照らされて意外な程、明るい。
「へえ、こんな所にこんな綺麗な所があったのか?」昭雄は感心して辺りの風景を眺めている。
「今はないわ」とラーラは言った。
「えっ?」
「この景色はね、五十年位前の時よ」
「あんたと話してると俺まで頭がおかしくなってくるよ」
「あなたはね、頭の中に、ある基準を勝手に作っているから頭が混乱するのよ。もっと頭を柔らかくしなさい。そうすれば色々なものがわかるわ」
「ここで何が起こるんだ?」
「もうすぐ始まるわ。ゆっくり見物しましょう」
ラーラはかたわらの石に腰掛けた。昭雄も隣に座る。
月に照らされて、小川は光りながら流れていた。
「景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」
「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。
「月見酒でしょ」とラーラはどこからか、一升どっくりを出す。昭雄は呆れて声も出ない。
「いつも、あなたは酒をぶらさげて散歩してるんですか?」
「そうよ。わたし、お酒、大好き」とラーラは言って、ラッパ飲みする。
「ああ、おいしい」と幸せ一杯の顔をした。「あなたも飲む?」
昭雄もラーラから、とっくりを受け取り、一口飲んでみる。何とも言えないうまさだった。日本酒のようで、ブランディのようでもあり、今まで飲んだ事がない味がした。しかし、アルコール度はかなり強かった。
「うまいでしょ?」
昭雄はうなづいた。「うまい。こんなうまい酒、飲んだ事ないよ」
「そりゃそうよ。この大自然が作り出したお酒よ。人間なんかに作れるわけないわ」
「自然が作っただって? それじゃあ、まだ、いっぱいあるのか?」
「あるわ、たっぷり。わたしが死ぬまで飲んでも飲みきれない程ね」
「どこにあるんだよ、教えてくれよ」
「駄目。これを人間に飲ませたら大変な事になるわ。昔から、よく言うでしょ。不老長寿のお酒があるって。これが、そのお酒よ」
「それじゃあ、これを飲むと死なないのか?」
「そうね、何百年も生きられるでしょうね。でも、このお酒が欲しいという人間に殺されちゃうから、結局、同じよ。百年も生きられないでしょ」
「うん、そうかもしれないな」と昭雄はもう一口飲む。
「うまい‥‥‥」
「そんなに飲むと後で腰が立たなくなるわよ」ラーラは昭雄から、とっくりを奪い、自分で飲む。
「ああ、いい気分だ‥‥‥景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。うまい酒もある。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」
「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。
「殺しよ」とラーラは笑いながら言う。
「ちょっと待てよ。せっかく、いい気分になってるのに、何が殺しだよ。もっとロマンチックな事を言えよ」昭雄はラーラから、とっくりを取り、一口飲む。突然、ハッとしてラーラを見る。ラーラは相変わらずニコニコしている。
「ちょっと聞きたいんだけど、まさか、俺を殺す気じゃないだろうな?」
「フフフ」とラーラは笑う。「あなたを殺したら、わたしは永遠に存在しなくなるじゃない。それより、楽しく飲みましょう」
ラーラはまた、とっくりから酒を飲み、幸せ一杯と無邪気に笑う。そんな顔を見ていると昭雄には彼女の口から『殺し』なんて言葉が飛び出して来るとは、とても思えない。ただの可愛い女にしか見えない。昭雄はラーラを抱き寄せた。
「さっきより冷たくなったみたいだぞ」
「あら、そう‥‥‥まだ、お酒が足りないんじゃない」とラーラはとっくりを昭雄に渡す。
「そうだな」と昭雄は酒を飲む。酒はうまい。景色もいい。隣の女も最高だ。しかし、昭雄は考える。彼女の体温の冷たさは、今が夏だったら気持ちいいだろう。毎晩、彼女を抱いて寝ればぐっすりと眠れるだろう。だが、今はまだ陽気が寒い。彼女を抱いて寝たら、俺は氷にされてしまう。
「やっぱり、あんたは人間じゃないな」
「まだね‥‥‥あなたの孫よ」
昭雄はラーラから離れた。離れたくはないのだが、限界を感じたのだ。彼女を抱いていた手は冷えきって軽い凍傷のようになっていた。昭雄は慌てて、息を吹きかけたり手をこすったりした。
「あなた、酔うと踊る癖があるの?」とラーラは笑いながら言った。
小川の向こう側に、若い男と女が現れた。男は昭雄の祖父、二郎。女は昭雄の祖母、美枝子である。
「誰か来た」と昭雄が言った。「馬鹿に古臭い格好をしてるな」
「あの二人はね、あなたのお爺さんとお婆さんよ」
「まさか?」
「あの二人は、この山で知り合ったのよ」
「どっちの爺さんと婆さんだ?」
「あなたのお母さんの方よ」
「お袋のお袋は若くして病死したって聞いたけど」
「見てればわかるわ」
17
「気持ちいい」と美枝子は小川のほとりにしゃがみ、手を水の中に入れて言った。
二郎は美枝子の後ろ姿を優しく見守っている。
「冷たいですか?」
「ええ‥‥‥見て、月が映ってますわ」
「三日月ですね」と二郎は美枝子の隣にしゃがみ、川の中で遊ぶ美枝子の手を見ている。
「お爺さんは絵画きだったな」と昭雄は言った。「昔、お婆さんの若い頃の肖像画を見た事がある」
「わたしに似てた?」とラーラは言う。
「似てるわけないだろう」と昭雄は言ったが、よく見ると似ているような気もする。
「わたしね」と美枝子が言った。「前にも一度、ここへ来たような気がしますわ」
「いつ頃ですか?」と二郎は美枝子の横顔に聞いた。
「わかりません‥‥‥もしかしたら、夢の中だったのかもしれませんわ」
「そういう事、よくありますよ」
「何となく、懐かしいような気がします」
「いい景色ですね」
「彼女のお母さんがね」とラーラは言った。「彼女がまだ、おなかの中にいる時、ここに来た事があるのよ」
「ほんとかよ」と昭雄は本気にしない。
「ええ、ほんとよ。あなたはなぜ、この山に来たの?」
「何となく、絵になりそうな気がしたからさ」
「あなたの一族は必ず、この山に来るわ。何かに引っ張られるようにして」
「俺のお袋も来たのか?」
「ええ、小さい頃、あなたのお爺さん、ほら、あの人よ、あの人に連れられて何回か来たわ」
「俺は一度もお袋から、そんな事、聞いた事もない」
「あなたのお母さんは嫌な事を知ってしまったのよ。それで、この山の事は思い出さないようにしてるの」
「嫌な事? 何だい、それ?」
二郎と美枝子は石に並んで腰掛け、小川の流れを見ていた。
「わたしね‥‥‥」と美枝子は言った。
「えっ?」と二郎は美枝子を見る。
美枝子は小川を見つめたまま、「何でもないの‥‥‥」と小さく呟いた。
「美枝子さん‥‥‥」
「何ですか?」と美枝子は顔を上げて二郎を見る。
「‥‥‥」二郎、美枝子を抱き締める。
二人は石になったように身動きもせずに抱き合っている。
突然、二郎が消える。
「何だ?」と昭雄は瞬きをする。「どうして、あの男は消えたんだ?」
「それはね」とラーラは酒を一口飲む。「それはね、彼女の心の中で、あの男が消えちゃったのよ」
「なぜ?」
「冷めたのよ、二人の仲が」
「いつだ、それは?」
「子供ができてからみたい。あなたのお母さんがね」
「どうして?」
「そんな事、知らないわよ。いくら、わたしだって人の心の中まで覗けないの」
「ほら」とラーラは昭雄にとっくりを差し出す。「そんな細かい事、いちいち気にしないで、もっと大きくなりなさい」
昭雄はとっくりをラーラから引ったくり口に持って行く。
「空っぽじゃないかよ」
ラーラはゲラゲラ笑う。
「この酔っ払い女め、勝手な事ばかり言いやがって」
「もう一度、口に当ててみて、今度はちゃんと入ってるわよ」
昭雄は疑いの眼でラーラを見ながら、とっくりを口に持って行く。彼女の言う通り、酒は入っていた。
「やっぱり、あんたは女ギツネだな」
「そうよ。わたしは可愛い女ギツネよ。あなたをからかってんの」
「勝手にしろ!」
美枝子は一人、石に腰掛けたまま川を見ている。そこに新たな男が登場。麗子の祖父、義夫である。義夫の方に振り向く美枝子。
「あなた、どこに行ってらしたの? 突然、消えたりして、わたし、とても心細かったのよ」
「何を言ってるんだい。君が喉が渇いたって言うから水を捜しに行ってたんじゃないか」
「そうだったかしら。わたし、随分と長い間、ここで待っていたような気がするわ」
「君は大袈裟だよ。ほんの一、二分だろ」
義夫は水筒を美枝子に渡すと隣に座った。
「さっきから八年後よ」とラーラは言った。
「何?」と昭雄は驚く。「八年もあそこにいたのか?」
「まさか、これは彼女の思い出なのよ。彼女の心の流れを再現しているの」
「へえ、便利なもんだな。人の心を勝手に、こんな所で公開なんかしてよ、あんたは大した演出家だよ」
「うるさい。静かに見てなさい」とラーラは昭雄を睨んだ。
昭雄はゾクッと寒気を感じておとなしくなる。
「わたし」と美枝子は言った。「喉なんか渇いていません」
「ここは」と義夫は言った。「君の思い出の場所なのかい?」
「ええ、わたしが生まれた所、わたしが結婚した所、そして‥‥‥」
「君はここで生まれたのか?」
「そんな気がするだけよ」
「だから、ここを死に場所に選んだわけか?」
「えっ? 何を言ってるの? わたし、まだ死にません」
「君こそ何を言ってるんだよ。僕と一緒に死のうって約束したじゃないか。今になって急に気が変わったのか?」
「そんな約束してないわ、わたし」
「君が約束したから、二人して、こんな山奥まで来たんじゃないか。君がここで死にたいって言ったんだぜ」
「嘘よ。わたし、まだ死なないわ。子供だっているし、夫だっているもの」
「僕だって、子供もいるし妻もいる」
「それなのに、なぜ、死ななければならないの?」
「もう、それしかないんだよ。僕らに残ってるのは」
「いいえ、わたしには、まだ夢があるのよ」
「夢? どんな?」
「‥‥‥言えないわ」
「もう手遅れさ。すべて、もう駄目だよ‥‥‥死ぬしかないんだ」
「わたしね、さっき、一人の時、色々考えてたの。もう二度とここには来ないんじゃないかって気がしたわ」
「そうさ。僕らはもう、二度とこの山にも来ないし、あの腐った都会にも帰らない。ここで、二人だけで静かに死んでいくんだよ」
美枝子は首を横に振りながら、義夫の顔を見つめる。義夫はゆっくりとうなづくと水筒から水をコップに移した。ポケットから薬を出すとコップの中に溶かした。
「何、それ?」
「これを飲めば、眠るように死ねるんだ」
「わたし、まだ眠くないわ」
義夫はコップを美枝子の手に握らせる。美枝子はコップを両手で包むようにして口元まで持っていき、コップの中の水を見つめた。
「月が‥‥‥」
コップの中の水にちょうど三日月が映っている。
「それを飲めば、楽になれるんだよ」
美枝子はしばらくコップの中の月を見つめていたが、急に水を投げ捨てた。
「わたし、三日月なんて飲めないわ」
義夫は思い詰めたように美枝子の顔を見つめている。
「ねえ、やめましょう‥‥‥ねえ、もう帰りましょう。子供が待ってます」
美枝子、コップを置き、立ち上がろうとする。義夫は素早く、美枝子の首をつかんで絞める。
「やめて! わたし、まだ死なないのよ」
「一緒に死ぬんだ」
「いやよ、やめて‥‥‥」
「やめろ!」と昭雄は怒鳴った。
「駄目よ」とラーラはたしなめた。「あなたの声は聞こえないわ」
「俺が行って止めてやる」
「駄目よ。あなたはあの世界には入れないのよ」
美枝子はもがき苦しんでいる。
美枝子はぐったりと動かなくなる。
美枝子は死んだ。
死んだ美枝子を呆然と見ている義夫。荒い息をしながら水筒に手を伸ばし、水を浴びるように飲む。ポケットからタバコを出すと死人の前でちょいと一服。タバコを投げ捨てると美枝子を石の上に寝せ、着物を直してやる。乱れた彼女の髪を綺麗に直し、静かに眠っているような安らかな顔を優しく撫でながら、義夫は独り言をブツブツ言っている。
ようやく、義夫はポケットから薬を出して口の中に入れた。水筒を口に持っていくが中は空だった。辺りを見回し、コップで小川の水をすくうと目をつぶって一息に飲み干した。ゆっくりと美枝子の隣に行き、横たわる。美枝子の横顔を見つめ、そして、空を見上げ、次に並んでいる二人の姿を見る。まだ、右手にコップを持っているのに気づき、コップを投げ捨て、美枝子の手を握ろうとするが、急に顔を歪めて体を丸め、両手で腹を押さえたまま、ガクッと死んだ。
並んだ二つの死体。
やがて、死体は消えた。死体の跡に黒い影が残る。











