人間に興味を持った妖精のラーラが現在過去未来と遊びながら、少しづつ人間を理解していきます。
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第三部 無住心 1.2.
2007年09月15日(土) 10:13

第三部 無住心







 ねえ、元気?

 毎日、色々と忙しいから疲れてるんでしょ。

 そういう時はね、何も考えずに横になるのよ。そしてね、両脚を揃えて、うんと伸ばして、吸った空気を臍下の下腹から腰、腰から足、足から土踏まずまで、ずっと通すような気持ちで、ゆっくりと呼吸するの。

 それを何回か繰り返すんだけど、その時ね、

『わたしは綺麗で可愛いラーラが大好きで〜す』

『わたしは綺麗で素直なラーラと一体になりま〜す』

『わたしは健康で素直なラーラ、そのもので〜す』ってね、心の中で繰り返し思うのよ。

 それを一週間位、続けてごらんなさい。疲れだけじゃなくて、体の病気、心の病気、何でも治っちゃうわ。

 これをやって、みんな、元気にならなきゃ駄目よ。元気になれば陽気になるし、陽気になれば余裕も出てくるわ。余裕が出てくれば、結構、毎日毎日が楽しくなるものよ。せっかく、人間様に生まれたんだから、楽しくやらなきゃ損よ。

 ところで、あたしが人間界で踊りの先生やったの、覚えているわね。一応、あたしだって芸術家だったのよ。それでさ、酔雲爺さんに自慢してやろうと思って待っていたのよ。それなのに、なかなか来ないじゃない。

 おかしいなって思って、爺さんの山小屋に行ったら誰もいないの。それがさ、部屋の中がやけに綺麗に片付いてるのよ。あの爺さん、いつも散らかしっぱなしじゃない。おかしいのよ。

 壁には爺さんの絵が額に入って並べてあったわ。どうも変よね。あたし、しばらく考えてたわ。そしたらね、雪の積もった庭の片隅にお墓があるじゃない。回りに一升瓶をずらっと並べてね、綺麗な花と線香が立ってたわ。酔雲先生之墓だってさ‥‥‥やだ、まったく、あの爺さんたら、とぼけて墓石なんかに化けてんのよ。

 コラッて、あたし、墓石をたたいてやったわ。手が痛かった。まったく、あの爺さんたら、いつも自分勝手なんだから‥‥‥いつも、あたしの知らないうちにいなくなっちゃうんだもん。もう嫌いよ。

 人間の命って短いのね。あたしがちょっと人間界で遊んでいたら、もう、爺さんたら死んじゃって‥‥‥つまんないの。

 すけべじじいだったけど面白かったわ。また、一緒にお酒飲みたかったのに‥‥‥

 馬鹿! どうして、もう少し待っててくれなかったのよ‥‥‥

 あれ、あたし、何を考えてんだろ。あたしは人間じゃないんじゃない。爺さんが生きていた頃に戻れば、また会えるのよ。そうよ、何も、こんな墓石なんかとお酒を飲む必要なんかないんじゃない。馬鹿みたい。

 あたし、ちょっくら、爺さんと会って来るわ。


萬座白百合照島瑞泉まるた春雨龍








 あら、何か変ねえ。

 爺さんのお墓がなくなったのはいいんだけど、山小屋までなくなっちゃって、回りの景色まですっかり変わっちゃったわ。また、戻りすぎちゃったのかしら?

 よくわかんないけど、ここに山小屋がないって事は、あの爺さんはまだ、この山に来てないのよね。 来るわけないわ。道なんかどこにもないし、まるで森の中じゃない。

「エイッ! ヤァー!」

 あれっ、人間の声だわ。こんな雪山の中に人がいるのかしら?

 ついでだから、ちょっと見て行こう。

 あっ、綺麗な川が流れてる。

 あっ、いたいた。雪の中で刀を振ってるわ。何を切ってるんだろ。空気でも切ってるのかしら?

 よくわかんないけど、真剣な顔して空気を切ってるわ。空気ってそんなに切りにくいのかしら?

 でも、いい男じゃない。背も高くて、スラッとしてて体格もいいし、カッコいいわ。人間の年はよくわかんないけど、三十前後ってとこかな。

 あれっ、今度は目をつぶって座り込んだわ。何か考えてるのね。きっと、悩んでるんだわ。

 うん、決めた。彼と遊ぼう。
第三部 無住心 3.4.
2007年09月16日(日) 08:25




 五郎右衛門は木剣を振っていた。



 新陰流、猿飛之太刀

猿飛
‥‥‥ 猿猴(えんこう)の身の軽き事を言う。千丈の巌(いわ)にも飛び、木末(こずえ)を走るに翼あるよりも自由自在なり。この妙をうるは一身二心満ちて、一と止まる事なきゆえなり。しかと言えども、その限りあらん千尋(せんじん)の谷を越えんとするに、彼の岸に生いたる柳あって、吹き来る風のなびける枝に飛びつきて、その拍子に向こうへたやすく渡る。これ、遠き境に近き道なり。このかしこきを太刀に名付けて猿飛という。


燕廻
‥‥‥ つばめ巡ると言う事なり。燕はいたって羽の軽き事、何の鳥より勝れたり。たとえて言えば、猛鳥一文字に来て、燕をつかむ一拍子に、飛び違えてやりすごすに、またたくよりも早し、これを業にたとえ、燕廻(えんかい)という。


月陰
‥‥‥ 日月陰陽とつづき、二字とも極陰なり。月は形あって闇夜を照らし、陰は形なくして闇夜の如し。月の光に陰を見ると言う事と成るべし。たとえば、闇夜に戦はば、敵の形見えず、我が影も見るべからず。然らば、何を以って相手にせんや。暗き所に物を尋ねるが如く、太刀を持ってみん。その探る太刀の光を目当てにして戦うべし。


山陰
‥‥‥ 月陰より移って陰陽表裏なり。山は現れて陽なり。陰は隠れて裏なり。山に向かって後ろを巡れば、前は後ろになりて、後ろはまた前に成るなり。此の心持ちを業にたとえて山陰(やまかげ)という。


浦波
‥‥‥ 漫々たる海上、大風に波のさかまき、打てば返し、返しては打つが如く、波の揉み合う景色を業にたとえて浦波(うらなみ)という。


浮舟
‥‥‥ 浦波より移って、波の懸け引きによく舟の浮く心持ちを業にたとえて浮舟(うきぶね)という。



 五郎右衛門は『猿飛六箇之太刀(えんぴろっかのたち)』を鋭い太刀さばきで空気を相手に稽古している。



 座禅‥‥‥



 そして、抜刀(ばっとう)。

 腰を落とし、刀を抜いては気合をかけ、空を水平に切り、素早く鞘(さや)に戻す。

 それを何度も繰り返している。



 座禅‥‥‥



 次は立ち木を相手に木剣を振り始める。気合を入れて、思い切り、立ち木を叩いている。

 木剣が木を打つ音と五郎右衛門の掛け声が山の中に響き渡る。


正伝・新陰流










 岩屋の中、焚き火の光の中で、五郎右衛門は小刀で木を彫っている。

 観音像である。彼の剣に似て、切口が鋭い。

 五郎右衛門がこの山に来て、すでに七日が経っていた。昼は一日中、剣を振り、夜はこの観音像を彫っていた。

 最後に目を彫り入れると観音像は完成した。その顔はどことなく悲しい顔をしていた。

 五郎右衛門は彫り上げた観音像を石の上に置き、しばらく見つめてから、足を組み直して目を閉じた。
第三部 無住心 5.6.
2007年09月17日(月) 08:04




 五郎右衛門は武芸者と木剣を構えて立ち合っている。

 気が満ちた時、お互いに気合と共に打ち合い、そして、元の場所に戻った。

「いかがでしたか?」と五郎右衛門は尋ねた。

「相打ちですな」と相手は答えた。

 五郎右衛門は首を横に振った。

「何、おぬしの勝ちと言われるか?」

「はい。拙者(せっしゃ)の勝ちです」

「しからば、真剣にて、お願い申そう」

「無益な殺生(せっしょう)です」

「逃げるか? 卑怯(ひきょう)なり!」

 真剣を構え、向かい合っている五郎右衛門と武芸者。五郎右衛門は清眼(せいがん)に構え、武芸者は清眼から上段へと移した。五郎右衛門が右足を後ろに引いて、清眼から下段に移した瞬間、武芸者は気合と共に斬り掛かって行った。

 勝負は一瞬にして決まった。

 武芸者が上段から斬り下ろす刀より速く、五郎右衛門の下段から斜め上に斬り上げる刀は武芸者の横腹を斬り裂いていた。

 血を吹き出しながら、武芸者はゆっくりと倒れ込んだ。

 五郎右衛門は倒れている武芸者を見つめながら血振りをして、懐紙(かいし)で刀の血を丁寧に拭うと鞘(さや)に納めた。息絶えた武芸者に片手拝みをすると、荷物を背負い、その場を去った。

 どこからか、武芸者の妻と子供が出て来て、死体にしがみついて泣き叫んだ。

 五郎右衛門は振り返って、妻と子を見た。

 妻は死んだ夫の首を抱いて、うなだれている。子供は八歳位の男の子で、父にしがみついて泣きながらも、じっと五郎右衛門を睨みつけていた。

 五郎右衛門は子供の視線を振り切るように、その場から立ち去った。


和泉守兼定










 岩屋の中で、観音像を前に座禅をしている五郎右衛門は突然、気合と共に刀を抜いた。刀は鋭い音を立てて空を斬った。素早く、刀を鞘に納めると、また座禅に入った。

「何をそんなに考えてるの?」と誰かが言った。

 五郎右衛門は目をあけ、辺りを見回す。人がいるはずはない。気のせいだろうと、また目を閉じた。

「ねえ、何をそんなに考えてるの?」とまた、女の声がした。

 五郎右衛門は目をあけ、回りを見るが誰もいない。首を傾げ、首の後ろを何度か叩いた。

「あたしよ」と木彫りの観音様が言った。ラーラである。ラーラが観音像の中に乗り移っていた。「独りで悩んでても始まらないわ」

 五郎右衛門は観音様を睨みながら、刀の柄に手をやった。

「ちょっと待って。あなた、あたしを妖怪かキツネか何かだと思ってるわね? 違うわ。あたしは観世音菩薩よ。しかも、あなたが作り出した観音様よ。まあ、あなたがどう思おうと構わないけど、あたしに悩みを話してみない? 別に損するわけじゃないでしょ。それとも斬る?」

 五郎右衛門は刀を抜き、上段に構えると気合と共に振り下ろす。観音像の頭上、わずか紙一重の所で刀を止める。

「そんなカッコなんかつけてないで、素直にあたしを信じなさいよ」

「そうじゃな、信じるか」と五郎右衛門は刀をしまって観音様の前に座った。

「話してくれる?」

「何を?」

「あなたの悩み?」

「わしの悩みか? 実はの、人妻に惚れちまってのう。どうしたらいいもんかのう?」

「あら、そうだったの。面白いのね。あなたが人妻に惚れたの? そんな事、簡単じゃない。その自慢の人斬り包丁で、亭主を料理すれば片が付くでしょ」

「そうじゃな。やはり、それが一番いいか」

「あなた、昼間は毎日、棒振り踊りをしていて、夜は座禅したりしてるから、真面目な堅物(かたぶつ)だと思ってたら、わりと面白い人じゃない」

「それ程でもないぜ」

「どうして、こんな山の中にいるの?」

「世の中に飽きてのう。仙人にでもなろうかと思ってな」

「そんな年でもないでしょ。下界で人妻と遊んでた方が面白いでしょうに」

「飽きたわ」

「この色男が何言ってんのよ‥‥‥まあ、いいわ。あなたが言いたくないってんなら言わなくてもいいわ。それより、今夜は一緒にお酒でも飲みましょうよ」

「なに、酒を飲む?」

「嫌い?」

「嫌いじゃないが、ここには酒などない。しかも、観音さんよ、そなた、どうやって酒を飲むんじゃ?」

「簡単よ。この窮屈な木像から出ればいいのよ。ちょっと待っててね」

 突然、焚き火の火が大きく揺れた。揺れながら、火はだんだんと小さくなり、パッと消えると真っ暗になった。

 五郎右衛門は暗闇の中、刀の柄を握って、じっと耳を澄ませた。

 しばらくして、再び、焚き火の火が付くと、焚き火の向こうに等身大の観音様が現れた。勿論、ラーラである。ラーラは一升どっくりを抱えて笑っていた。

「もう一度、あたしの肝(きも)を試すつもり?」

「いや、やってもいいが、あんたはちっとも驚かんじゃろう。面白くない」

「フフフ‥‥‥まあ、一杯やりましょ。あなたも久し振りなんでしょ」

 ラーラは二つの茶碗に酒を注いだ。

「おいしいわよ」とラーラは五郎右衛門に茶碗を渡す。

 五郎右衛門は茶碗の中を覗き見る。

「毒入りよ」とラーラは笑って、自分から先に飲んだ。

「観音様と一緒に死ぬのもいいじゃろう」と五郎右衛門も飲んだ。「うむ。うまい‥‥‥はらわたに染み渡るのう」

「そりゃそうよ。お釈迦(しゃか)様が飲んでるお酒よ」

「成程な。お釈迦様ってえのは、どんな男なんじゃ?」

「いい男よ、昔はね。最近はもうろくして駄目よ。昔、書いたお経を読み返しては、ああでもない、こうでもないってブツブツ言ってるわ」

「わしは無学じゃから、お経なんて読んだ事もないが、一体、何が書いてあるんじゃ?」

「たわごとよ。ほんとはお釈迦様だって大変なのよ。馬鹿な人間どもにさ、お釈迦様の気持ちをわかりやすく教えてやろうと思って、いっぱい、お経を書いたのよ。それでも昔はよかったのよ。みんな、知ってたわ。お経の中に書いてあるのは、お釈迦様の心のほんの一部に過ぎないんだってね。お釈迦様の心はもっとずっと大きくて、決して、言葉なんかで表せるものなんかじゃないってね。ところが、人間て馬鹿じゃない。そのうちさ、お経がお釈迦様の教え、すべてなんだって思い込んじゃったのよ。でっかいお寺なんか建てちゃって、その中で朝から晩まで、お経を読んで、成程、成程って勝手にお釈迦様の事、理解したような気になっちゃってさ。冗談じゃないわ。お経なんて、ただの道しるべじゃない。それも一番初歩よ。山でたとえたら入口みたいなものよ。入口の辺りをウロウロしていて、山の頂上に登った気でいるんだから、どうしょうもないわ。お釈迦様の考えが台なしになっちゃったのよ。お経を残したばかりに、みんながお経にとらわれちゃったの。かと言って、何も残さなかったら、馬鹿な人間たちは信じないしね。それで今、お釈迦様は悩んでるのよ。大変よ、お釈迦様も。人間が馬鹿だから休む暇もありゃしない」

「おい。あまり、人間を馬鹿、馬鹿言うなよ」

「そうね。人間の中にも、やっぱり偉い人もいるけどね。ちゃんと、お釈迦様の教えをわかってくれる人もいるわ。でも、やっぱり、これはしょうがないのよね。人間、全部がわかってくれるなんていうのは無理なのよ。わかる人にはお経なんてなくてもわかるし、わからない人には、お経があってもわからないのよ、絶対。それを、わからない人にもわからせようとするんだから大変よ、お釈迦様は」

「そなたも似たような事をしてるんじゃろ?」

「そうよ。でも、あたしは物ぐさだから、あたしの名前を呼んでくれなきゃ行かないわ」

「わしは別に呼んじゃおらんぞ」

「嘘よ。毎晩、呼んでたじゃない」

「わしがか?」

「その像を彫ってたでしょ。一々、観音経なんて唱えなくてもね、観音像を彫れば、ただ、それだけでも縁ができるのよ」

「そうか。そういえば、観音様なんて彫ったのは初めてじゃ」

「あたしを彫ったって事は、あなたの心の中に、何か変化が起きたのよ」

 五郎右衛門は酒を飲んだ。

「確かに、わしの中で変化が起きた事は確かじゃ」

「もう一杯、どうぞ」とラーラは五郎右衛門に注いでやる。

「わしは子供の頃から強くなりたいと思っていた。強くならなけりゃ駄目だと思ってきた。今までのわしは剣一筋に生きて来たといってもいい。それこそ、朝から晩まで木剣を振っていた。夜、寝る時でさえ、剣の工夫をしていたんじゃ。お陰で新陰流(しんかげりゅう)の奥義(おうぎ)を極めるまでになった。諸国に修行に出て、他流試合を何度もやった。一度も負けはせん。すべて勝つ事ができた。時には相手を殺してしまう事もあった。しかし、それは試合じゃ、仕方のない事じゃと思っていた。お互いに剣に命を懸けて生きている。剣に命を懸けている者が、剣に敗れて死ぬのは当然の事じゃと思っていた‥‥‥つい、この間も、わしは試合をした。木剣でやった。勝負は紙一重で、わしの勝ちじゃった。しかし、相手にはわからなかった。今度は真剣でやると言い出した。わしは受けた。そして、相手は死んだ‥‥‥わしはあまり、いい気分にはなれなかった。なぜだか、わからん。今までにも、同じような事は何度かあった。しかし、それは仕方のない事じゃと割り切って来た。ところが、今回はなぜか、後味が悪かった。わしがその場を去ろうとした時、どこからか、死んだ男の妻と子が出て来た。二人とも死体の上に重なって泣いていた。わしは早く、その場を去ろうとした。しかし、なぜか、気になって足が止まった。わしは引き返した。わしはその時、なぜ、引き返したのかわからん。何も考えていなかった。自分が何をしようとしているのか、まったくわからなかったんじゃ。わしは妻と子に頭を下げ、仏に両手を合わせた‥‥‥その妻はできた女じゃった。わしの事を許してくれた。妻には、いつか、こうなる事がわかっていたという。子供はわしに向かって、『父上を返せ』と泣きながら叫んだ‥‥‥わしにはわからなくなった。確かに、わしは強くなった。しかし、こんな事をするために、剣術の修行を積んで来たわけじゃない。剣術というのは、こんなもんじゃないはずじゃ‥‥‥わしにはわからん」

「あたしにもわからないわ。でも、剣術っていうのは人殺しの術でしょ? 人を殺すのがいやになったんなら、そんな刀なんて捨てればいいじゃない」

「刀を捨てるのは簡単じゃ。しかし、わしには本物の剣術っていうものが、何かもっと深いもののような気がするんじゃ」

「あなたの新陰流を作った人はどんな人だったの?」

「上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)殿か‥‥‥師匠から何度か聞いた事はある。大した人物じゃったらしい」

「あなたもその位になればいいんじゃない」

「それがわからんのじゃ」

「やっぱり、それは自分で見つけるしかないわね。そういうものは人からああだ、こうだって言われてわかるもんじゃないわ。自分で苦労して、つかみ取らなきゃ駄目ね。ただ言えるのはね、今のあなたの剣術は、弱い者には勝てるけど、強い者には負けるわ。同じ位の者とやれば相打ちね。それじゃあ、畜生と一緒よ。そんなのは畜生兵法(ちくしょうひょうほう)ね」

「畜生兵法じゃと‥‥‥」

「そう。オオカミがウサギを殺す。鷹(たか)が小鳥を殺す。小鳥が虫を殺す。強い者が弱い者を殺す」

「そんな事は当然じゃろ」

「あなたの剣術もそれと同じ。でも、それ以下かもしれないわ。鷹は強いけど、それを自慢したりしないわ。どうしても必要な時だけしか、小鳥を殺したりはしない。あなたはどう?」

「わしだって自慢なんかせん。わしは好きで殺しているわけじゃない」

「そうかしら?」

「そうじゃ」

「まあ、いいわ。その辺の所を考えるために、ここにいるんでしょ? ゆっくり考えるといいわ」

「畜生! わしにはわからん」

「あせらず、のんびりやる事よ」

 五郎右衛門は突然、犬の遠吠えのような大声を挙げ、腰の刀を抜くと、素早く、空(くう)を斬った。

 ラーラは一瞬にして消えた。
第三部 無住心 7.
2007年09月18日(火) 10:46




 早朝。

 ふんどし一丁で滝に打たれている五郎右衛門。両足を踏ん張り、両手を合わせ、仁王のような顔付きをして、ときたま、気合を入れている。

 木剣で形の稽古。



 新陰流、三学円之太刀

一刀両断
‥‥‥ 一刀はひとつの剣を以って、両断とふたつに分つと言うべき、これより、二と業の成る数ならん。始まるところは、諸流、皆以って一刀なるべし。一は無極なり、大きに動き働いて、二とは成るべし。これを両断と言い、段の字を斬と訓じて、一刀を以って敵を二つに斬ると言う心にて、一刀両断と言う。

斬釘截鉄
(ざんていせってつ)‥‥‥ 釘を切り、鉄を切るという事なり。この心持ちを禅には抜釘抜楔と言い、智見妄病を払うと言う。兵法にては敵を切って払うと言うも同じ心なり。

半開半向
‥‥‥ 半分ひらき、なかば向かうと言うことなり‥‥‥

右旋左転
‥‥‥ 右旋は右へまわり、左転は左へめぐると言うことなり‥‥‥

長短一味
‥‥‥ 長短の一味は長きも短きも、一つの味わいと言うことなり‥‥‥



 朝の稽古が終わると、五郎右衛門は朝食の支度をした。朝食といっても、わずかばかりの米に野草を混ぜた雑炊(ぞうすい)である。なべを火にかけると、五郎右衛門は観音像の前に座り、「わからん」と呟くと座禅を始めた。

 五郎右衛門の一日は判で押したように決まっていた。



 朝、夜明けと共に目を覚まし、滝を浴び、木剣で形の稽古を何度もやる。それから、朝飯、食後はしばらく、座禅。そして、また木剣を振り、立ち木を打ち、抜刀(居合)をやり、座禅をして、日が暮れる頃、小川で汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。

 今日でもう八日めになるわけだが、五郎右衛門の悩みは解決の糸口さえ、わからなかった。

 五郎右衛門は気合を掛けながら木剣を振っていた。

 汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、小川の向こう側に女が立っているのに気づいた。

 女は五郎右衛門を見ると丁寧に頭を下げた。

 五郎右衛門も頭を下げる。なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんだろうと不思議に思ったが、あえて無視して、顔の汗を拭いていた。そのうち、どこかに行くだろうと思っていたが、意外にも女は裾をまくって、川の中をこちらに向かって歩いて来た。

 年の頃は二十四、五か。見るからに山の女ではない。武家の女であろう。

 女は五郎右衛門の側まで来ると笑いながら、「こんにちわ」と言った。

「はあ」

「随分、お強そうですね」

「弱いから、毎日、稽古をしておる」

「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります」

「そなたはこんな山奥で何をしてるんじゃ?」

「わたしは、このすぐ上にあるお寺にいます」

「お寺?」

「はい」

「こんな山の中に寺があるのか?」

「はい。ちょっと変わった和尚さんがおります」

「そうか、知らなかった。その寺で何をしてるんじゃ?」

「夫の供養(くよう)です」

「亡くなられたのか?」

「はい。誰かに斬られて殺されました」

「斬られた?」

「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのです」

「試合に負けて死んだのか‥‥‥」

「旅の途中で負けてしまったんです」

「そうか‥‥‥」

「あの、お侍さんわたしを助けて下さいませんか?」

「助けるとは?」

「夫の仇(かたき)討ちです」

「相手がわかんのじゃろう」

「縁があれば、きっと会えると思います」

「成程」

「その時は、わたしを助けて下さい。お願いします」

「よかろう。縁があったら、お助けしよう」

「助かりました。お侍さんが付いていて下さったら、もう百人力です」

「それでは失礼」と五郎右衛門は言って、去ろうとした。

「ちょっと、待って下さい。わたしは鶴といいます。お侍さんのお名前は?」

「針ケ谷五郎右衛門と申す」

「ハリガヤゴロウエモン‥‥‥珍しいお名前ですね‥‥‥また、ここに来てもよろしいでしょうか?」

「ご勝手に」

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。

 お鶴という女はしばらく、五郎右衛門を見ていたが帰って行った。


剣の精神誌

第三部 無住心 8
2007年09月19日(水) 14:23




 暗闇の中で五郎右衛門は座禅をしている。



 慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の合戦、起こる。五郎右衛門、八歳。

 囲炉裏を囲んで、八歳の五郎右衛門と父、母が粗末な食事をしている。

 家の外はやけに騒がしい。

「この騒ぎはいつまで続くんでしょうねえ」と母が言った。

「もう少しの辛抱だ」

「戦(いくさ)なんて早く終わってくれればいいのに」

「どこで、戦をやってるの?」と五郎右衛門は母に聞いた。

「遠くの方よ」

「じゃあ、ここは関係ないね?」

「ここは大丈夫じゃ。心配しなくてもいい」

「おおい、開けろ!」誰かが入り口の戸を叩きながら怒鳴った。

 母親は五郎右衛門をつれて、土間の隅にある筵(むしろ)の中に隠れる。

「開けろ! こら、開けろ!」侍たちは戸を叩きながら騒いでいた。

 父親は戸を開ける。

「何をしておる。さっさと開けんか」と酔っ払った足軽が三人、入って来た。

「おい、酒はあるか?」

「申し訳ございませんが、お酒はありません」

「なに、酒がないだと」と酔っ払いは父親を小突いた。

「それじゃあ、女を出せ」と別の酔っ払いが言った。

「女もいません」

「嘘つくんじゃねえ」と酔っ払いは土足のまま板の間に上がり、家の中を荒らし回った。

「やめてくれ」と父親が言っても小突かれるばかりである。

 とうとう、母親と五郎右衛門は見つかってしまう。

「いい女じゃねえか」と酔っ払いは母親に抱き着いた。

「おっ母に何するんだ」と五郎右衛門は飛び掛かるが、蹴られて転んでしまう。

「やろめ!」と父親は棒を手にして、酔っ払いに飛び掛かった。

「うるせえ」と一刀のもとに父親は斬られてしまう。

 母親は悲鳴を上げるが身動きができない。

「畜生!」と五郎右衛門はもう一度、飛び掛かるが投げ飛ばされて、そのまま気を失ってしまう。

 気がついた時には、母親はあられもない姿で死んでいた。

 両親の葬式を済ませると、村人たちが止めるのも聞かずに五郎右衛門は旅に出た。

 ただ、強くなるんだ。強くなって、あいつらを殺してやるんだと思いながら‥‥‥



 五郎右衛門は腹をすかして、道端に倒れていた。

 五郎右衛門は女に助けられた。もし、この女が普通の女だったら、彼の生き方も大分、変わったに違いない。

 その女は彼に対しては優しかったが、厳しくもあった。まだ、八歳だった彼は母親のように、その女になついた。しかし、その女は盗賊の頭(かしら)だった。荒くれ男どもを顎(あご)で使う勇ましい女だった。当時の彼には、その女がどうして、男たちにお頭と呼ばれているのかわからなかった。今、思えば、忍びの者だったのかもしれない。ともかく、五郎右衛門は三年余りの間、盗賊たちと一緒に過ごした。彼にとって、それは楽しい日々だった。

 彼はそこで初めて本格的に剣術を習った。荒くれ男ばかりだったが、彼らも根っからの盗賊ではない。関ヶ原の落ち武者である。戦に負けて浪人となったが、食う事もままならず、自然の成り行きで食いつめ浪人たちが集まるようになった。この集団もその一つである。

 楓という女を頭に、浪人たちが五十人近くも集まってできている。五郎右衛門が剣術を学ぶのに丁度いい環境といえた。理屈抜きの実践剣法をみっちりと仕込まれた。みんなから、かなり荒っぽく、こき使われたが、強くならなければならないと必死に堪えていた。

 そこでの生活で、彼は徳川家康という男の存在を知った。

 荒くれ男たちは『家康を倒せ!』と口癖のように言っていた。

 初めのうちは、家康という男が何者なのか全然、わからなかったが、彼らと付き合って行くうちに、少年の彼にも関ヶ原の合戦を始めた張本人が家康だったという事がわかって来た。彼の両親の仇は三人の酔っ払った足軽から、徳川家康という男に変わって行った。

 あっと言う間に三年の月日は流れた。五郎右衛門は十一歳になっていた。

 その日、お頭の楓(かえで)は何人かを引き連れて、いつものように仕事に出掛けた。そして、それきり帰って来なかった。罠(わな)に掛けられて殺されたという。この隠れ家も危ないというので、みんな、慌てて逃げて行った。

 五郎右衛門は取り残された。

「連れてって!」と泣きながら追いかけたが、馬に追いつけるわけはなかった。

 当てもなく、五郎右衛門は歩き続けた。



 次に彼を助けてくれたのは、一人暮らしの浪人だった。浪人は村はずれに住んでいた。

 腹をすかせた五郎右衛門は食べ物のいい匂いに誘われて、その浪人の住む小屋に行った。

 小屋の中を覗くと、浪人が木を削って何かを彫っていた。五郎右衛門はなぜか興味を引かれて、腹の減っているのも忘れ、熱心に浪人の仕事を見ていた。ただの木の塊(かたまり)が、浪人の手によって猫の形になって行った。招き猫である。

「坊主、面白いか?」と浪人は言った。

「面白い」と五郎右衛門は答えた。

 それが縁だった。彼は浪人から彫り物を教わる事となった。彫り物だけでなく、剣術も仕込まれた。新陰流の最初の師はこの浪人であった。

 浪人の名は大森勘十郎と言った。過去の事はあまりしゃべらなかった。でも、そんな事はどうでもよかった。なぜか、彫り物を彫るという事が楽しかった。

 剣術よりも、むしろ、木を彫っていた方が好きだった。しかし、剣術の稽古は毎日やった。剣術を教えている時の勘十郎は、まるで別人になったかのように厳しかった。

 勘十郎に打たれて気絶する事も何度かあったが、そんな事で親の仇(かたき)が討てるかと言われると、なにくそっとなって、決して、へこたれなかった。

 五郎右衛門の剣術の腕は見る見る上達して行った。体格も大きくなり、十七歳になる頃には勘十郎と互角の腕になっていた。

「もう、わしに教える事は何もない。お前には剣の素質がある。伸ばそうと思えば、いくらでも伸びる。わしの兄弟子で小笠原源信斎(げんしんさい)という人が今、江戸で道場を開いている。お前は源信斎殿の所に行って、剣を学べ」

 五郎右衛門は勘十郎の言う通り、江戸に向かった。

 江戸はまだ新しい都で、活気に溢れ、見る物すべてが田舎出の五郎右衛門には珍しかった。彼は源信斎のもとで剣術の修行に励み、江戸という新しい都で色々な事を学んだ。



 慶長十九年(一六一四年)、五郎右衛門が江戸に来てから五年が過ぎた。また、大戦(おおいくさ)が始まろうとしていた。

 東西の決戦、大坂の陣である。

 五郎右衛門は急いで大森勘十郎のもとに向かった。勘十郎からは何も言って来ない。しかし、彼にはわかっていた。勘十郎は浪人をしながら、この日が来るのを待っていたのだ。西軍に与(くみ)して一旗あげる事を‥‥‥五郎右衛門も勘十郎に付いて行く覚悟を決めていた。

「どうして、戻って来た?」

「父と母の仇討ちです」

「いいじゃろう。戦で本物の肝(きも)を鍛えろ」

 大森勘十郎と五郎右衛門は大坂に向かった。そして、五郎右衛門は見た。十四年前の関ヶ原の合戦の時、足軽どもが村人を襲い、略奪の限りを尽くしていたのと、まったく同じ光景を‥‥‥

 大坂に向かう食い詰め浪人たちは『お前らのために戦に行くんだ』というのを大義名分にして、村人たちに対して好き勝手な事をしていた。五郎右衛門は腹を立て、やめさせようとしたが、どうにも止める事はできなかった。いくら、彼の剣が強くても、何十人もの浪人たちを止める事は到底できなかった。

 五郎右衛門は大森勘十郎は真田幸村のもとで徳川軍と戦う事になった。

 五郎右衛門はこの戦で初めて人を殺した。人を殺すという事は余りにもあっけなかった。そして、戦という大きな力の中では、人を殺すという事に対して、何の抵抗も感じなかった。五郎右衛門は面白いように人を殺して行った。

 大森勘十郎は戦死した。

「戦がどんなものかわかったか? お前は、こんなくだらん戦なんかに巻き込まれてはいかん。犬死になど絶対にしてはいかん。本物の剣の道に生きるんじゃ」

 それが勘十郎の最期の言葉だった。

 大坂冬の陣は講和という形で終わった。



 五郎右衛門は旅に出た。

 翌年の夏、再び、大坂の陣があったが、彼は戦には参加しなかった。

 そして、その翌年、徳川家康は死んだ。

 五郎右衛門はただひたすら、剣術の修行をしていた。諸国を巡り、他流試合を何度もしては勝ち続けて来た。

 そして、今、山の中で座り込んでいる。


関ケ原から大坂の陣へ

第三部 無住心 9.10.
2007年09月20日(木) 10:08




 五郎右衛門が朝稽古を終えて、朝飯を食べている時、お鶴はやって来た。

「おはようさん」とお鶴は笑いながら言った。

「おはよう」と五郎右衛門は飯を食べながら返事をした。

「今日もいいお天気ね。五エ門さん、もし、雨が降ったらどうするの?」

「わしは五郎右衛門じゃ。雨が降っても変わらん」

「風邪ひくわよ」

「そんな事はない」

「強いのね。毎日、自分でご飯、作ってるの?」

「当然じゃ」

「あたしが作ってあげましょうか?」

「いらん。そなたは毎日、何してるんじゃ?」

「あたし? あたしは毎日、何やってんだろ?あまり、そういう事、覚えてないのよ。ようするに暇なのかしら」

「寺では何かをしてるんじゃろ?」

「そうね。和尚さんのご飯を作るくらいよ。夜は和尚さんとお酒を飲んでるわ」

「御亭主の供養もしてるんじゃろ?」

「そうね、それもしてるわ。でも、死んだ人なんかどうでもいいのよ」

「仇を討つんじゃなかったのか?」

「討つわ。あなた、助けてくれるんでしょ?」

「縁があったらじゃ。相手はどんな男なんじゃ?」

「人から聞いた話だとね、髭面(ひげづら)の大男だったって言ってたわ。それと確かな事は夫よりも強い男よ」

「それだけか?」

「うん‥‥‥まるで、あなたみたいじゃない」

「わしかもしれんな」

「あなたであるわけないでしょ」

「御亭主の名は?」

「川上新八郎」

「知らんな」

「五エ門さん。あなた、何人ぐらい人を殺したの?」

「わしは五郎右衛門じゃ」

「どっちでもいいじゃない。ねえ、何人殺したの?」

「数えた事はないが相当な数じゃろうな」

「ふうん‥‥‥女は?」

「女など殺さん」

「泣かせた女は?」

「そんなもんは知らん」

「ほんとはかなりいるんでしょ?」

「ああ、百人じゃ」

「ほんと?」

「ああ。そなたを入れりゃ百一人になる」

「面白い人。あたしを泣かす気?」

「ああ、そのケツをひっぱたいてな」

「フフフ、そのうちね」

「ところで、和尚っていうのはどんな男なんじゃ?」

「生臭(なまぐさ)坊主よ。毎日、日向ぼっこしてるわ」

「偉い坊主なのか?」

「さあ、ちっとも偉くなんか見えないわ。大した坊主じゃないんでしょ。面白い人だけどね」

「そうか」

「ねえ、あなた。また、棒振りやるの?」

「ああ」

「どうして? かなり強いんでしょ?」

「わしの剣はまだまだじゃ」

「よく昔の人が山奥で修行して、悟りを開いたとか言うけど、あれね? 悟りを開くまでここにいるの?」

「まあ、そういう事じゃ」

「頑張ってね。あたしも応援するわ」

 五郎右衛門は木剣を持って立ち上がった。

「今晩、お酒、持って来るわね。それと、ご飯もあたしが作ってあげる」

 五郎右衛門は立ち木に向かって木剣を振り始めた。


柳生新陰流木刀







10




 岩屋の中、五郎右衛門とお鶴が酒を飲んでいる。

「こういう洞穴の中で飲むお酒もわりとおいしいわね」

「わしはこの酒、飲んだ事あるぞ」

「あら、そう」

「ああ、観音様が持って来た酒と同じじゃ」

「観音様?」

「ああ。あいつじゃ」五郎右衛門は木像の観音様を示した。

「あんた、わりと冗談ばっか、言う人ね」

「そう言えば、そなた、観音様に良く似てるな」

「あら、良くわかったわね。あたしは観音様よ。そして、あなたは仁王様。あたしを守るのがあなたの仕事ね」

「そういう事じゃな」

「ねえ、五エ門さん。あなた、江戸に行った事ある?」

「ある」

「そう。あたし、行ってみたいわ。浅草に観音様がいるんでしょ?」

「小さな黄金の観音様がいるらしい。わしは見た事ないがのう」

「仁王様も?」

「でっかい仁王様が二人、入口で頑張ってるよ」

「ちっちゃい観音様を守るのに、でっかい仁王様が二人もいるの?」

「そうじゃ」

「さすがね。でも、あたしはあなた一人でいいわ。二人なんて、とても無理よ。体がもたないわ」

「お鶴さん。そなた、何を考えてるんじゃ?」

「何って、観音様の事じゃない。ねえ、もっと、江戸の事、聞かせてよ」

「わしは江戸で剣術の事しか考えてなかったからな。あまり知らんよ」

「じゃあ、何でもいいわ。話、聞かせてよ。何か面白い話ない?」

「それじゃあ、一つ、昔話でもしてやろう」

「色っぽいのを頼むわ」

「わかっておる。昔々、ある所にお爺さんとお婆さんがおったとさ。お爺さんは山に柴刈りに‥‥‥」

「ちょっと待って。それ、もしかしたら、桃太郎じゃない?」

「当たり」

「桃太郎くらい、あたしだって知ってるわよ。どこが色っぽいのよ?」

「桃から生まれた桃太郎が龍宮城に鬼退治に行って、乙姫様としっぽり濡れるんじゃろ。色っぽいじゃないか」

「どこが? 帰って来たら、おいぼれ爺さんの鶴になって、どこかに飛んで行くだけじゃない。鶴は千年、亀は万年、めでたし、めでたし。もっと他に知らないの?」

「酒呑童子(しゅてんどうじ)はどうじゃ?」

「駄目。つまんないわ」

「面白いぞ。源頼光(みなもとのよりみつ)が四天王を引き連れて、大江山に乗り込んで行くんじゃ」

「つまんないったら。ただの鬼退治じゃない。あなた、鬼退治しか知らないのね」

「それじゃあ‥‥‥」

「一寸法師も駄目」

「それじゃあ、ハムレットは?」

「駄目。オフィーリアが可哀想よ」

「そうか、じゃあ『夢ケ池』ってのはどうじゃ?」

「何、それ?」

「悲しい恋の物語」

「うん。それ、行ってみよう」

「昔々、まだ武蔵野が一茫の野原での、江戸という地名はもとより、人家もほとんどなかった頃の事じゃ。浅茅(あさぢ)ケ原と言ってのう、今の浅草辺りらしいんじゃが、そこにポツンと一軒のあばら家があったんじゃ。それは汚い小屋だったらしいが、旅人にとっては極楽だったんじゃな。何しろ、辺り一面、原っぱで、うちなんか何もないんじゃ。仕方なく、野宿しようかと思っていると、ポツンと灯りが見えて来る。旅人はその灯りに引かれて、一夜の宿を頼むわけじゃ。そこに住んでるのは老婆と娘の二人っきりでな。その娘っていうのが、えらく別嬪なんじゃよ」

「ねえ、ねえ、あたしとどっちが綺麗?」

「そうじゃな。そなたの方が綺麗じゃろう。婆さんよりはな」

「何よ、この」

「それで、その娘っていうのは色白で目元涼しく、その美しい顔には何とも言えん哀愁が漂ってるんじゃ。それがまた魅力でな」

「あたしみたい」

「それで、旅人なんじゃが、その娘の美しさに放心して、ある者は恋人を思ったり、ある者は故郷に残して来た妻の事を思うんじゃ」

「思うだけで、その娘には手を出さないの?」

「出した奴も中にはいたじゃろうな」

「あなたみたいにね」

「うるさい。黙って聞いてろ。どこまで、話したっけ?」

「旅人が娘を口説く所よ」

「違うわ。ええと、娘じゃなくて老婆じゃ」

「あなた、老婆も口説いたの?」

「馬鹿、わしの話をしてるんじゃないわ。その老婆っていうのは、実は鬼婆なんじゃ。旅人が旅の疲れでぐっすり寝てしまうと‥‥‥」

「いいえ、それは違うわ。その旅人は娘を抱いたから疲れたのよ。そういういい女ってえのは男を疲れさすものなのよ」

「そうかい。とにかく、旅人はぐっすり寝てるんじゃ。老婆は石でもって旅人の頭を砕いて殺し、身ぐるみを剥がすと死体は近くの池に投げ捨てた。そうやって、老婆は何人もの旅人を殺して旅人の持ち物を盗んでいたんじゃ」

「娘はそれを黙って見てたの?」

「そう。そこが悲しい所なんじゃよ。老婆っていうのは娘の母親なんじゃが、母親にそんな事はやめてくれって言っても聞いてはくれん。旅人は助けてやりたいが、それには母親の悪事をすべて、さらけ出さなくてはならん。小さな胸を震わせて、毎日、悩んでいたんじゃよ」

「とか何とか言っちゃって、本当は自分も楽しんでたんじゃないの。きっと、その娘、淫乱(いんらん)なのよ」

「おい、勝手に淫乱にするな」

「それで、どうしたのさ」

「ある日の夕暮れ、一人の旅人があった。それが見目麗しいお稚児(ちご)さんじゃ」

「あんた、お稚児さんにも興味あるの?」

「わしじゃない、娘の方じゃ。娘がその稚児に一目惚れしたんじゃ。そこで、娘は考えた」

「可愛いちっちゃな胸で?」

「そうじゃ」

「そのお稚児さんと駆け落ちしようと?」

「違う。その夜も稚児が寝てしまうと、老婆は手慣れた石で頭を一気に砕いたんじゃ。ところが、明かりを近づけた老婆は悲鳴をあげると共に、その死骸に取りすがって泣いたんじゃよ」

「娘だったのね?」

「そうじゃ。稚児を助けるために娘は自分の命を捨てたんじゃよ」

「それで?」

「おしまい」

「お稚児さんはどうなったの?」

「腰を抜かして小便を漏らして逃げてったんじゃないのか」

「情けないわねえ。その娘が可哀想じゃない。どうして、そんな男のために命を捨てるのよ。わかんないわよ」

「娘は稚児だけじゃなくて、母親も救ったんじゃ」

「母親はどうなったの?」

「尼さんになって自分が殺した死者の菩提(ぼだい)を弔(とむら)ったんだとさ」

「めでたし、めでたしね‥‥‥ねえ、もっと、艶(つや)っぽい話はないの?」

「どこかの殿様が愛する妾(めかけ)のアソコを食っちまったっていう話はどうじゃ?」

「アソコって?」

「ここじゃ」

「すけべ。あんた、ちょっと変態じゃないの?」

「馬鹿者、わしがそんな物を食うか。その殿様だって好きで食ったわけじゃない。食わされたんじゃ。色々と女どもの嫉妬がからんでるんじゃよ」

「やめてよ。そんな気色わるい話。今度は純愛物がいいわ」

「そんなもん、わしが知るか。今度は、そなたがやれ」

「そうね‥‥‥八百屋の七ちゃんのお話、知ってる?」

「知らん」

「知ってるわけないわね。今から六十年後の話よ」

「何、六十年後だと? まあ、好きにしろ」

「その年にね、江戸で大火事が起こるのよ。八百屋の七ちゃんの家も焼け出されてね、お寺に逃げ込むのよ。七ちゃんはまだ十五で、それはもう初々しくて可愛いの。あたしみたいよ」

「十年前のそなたじゃな」

「ううん」

「いてっ!」

「可愛い七ちゃんはね、お寺の境内を散歩してたのね。そして、寺小姓(てらこしょう)のよっちゃんていう美少年と出会うわけ」

「それは十年前のわしじゃな」

「ハハハ、笑わせないでよ、あなたが美少年だって‥‥‥かもしれないわね。あたしたち、十年前に会ってたらよかったのにね。二人ともまだ初々しくて‥‥‥あなた、十年前、何してたの?」

「十年前か‥‥‥江戸で剣術の修行してたのう」

「あなたはいつでも剣術なのね」

「そなたは何やってた?」

「あたし? 十年前はね‥‥‥もう忘れたわ。ええと、七ちゃんとよっちゃんはね、お寺の境内で偶然、出会ったのよ。その出会いが、また可愛いのよ。よっちゃんの指にとげが刺さって困ってたの。それを七ちゃんが優しく抜いてあげるのよ」

「そのお返しに、今度はよっちゃんが七ちゃんにとげを刺してやるのか」

「何言ってるの、この馬鹿。それが縁で、二人はこっそり会うようになるの。境内の木陰や物陰で幼い恋が芽生えるのよ」

「とげの抜きっこをするんじゃな」

「とげはもういいのよ。ところがね、焼けた七ちゃんの家が何とか住めるようになったんで、二人は別れなければならなくなったの。つらい別れだったわ。家に帰った七ちゃんは悲しいくらい、よっちゃんの事を思って苦しんだわ。会いたいけど会えない‥‥‥」

「どうして、会えないんじゃ? 会いに行けばいいじゃろう」

「あんたにはわかんないのよ、恋に悩む切ない乙女心が。七ちゃんはとても内気で、そんな大それた事なんてできなかったの。でも、下女に頼んで、手紙のやり取りはしてたみたい。だけど、とても、そんな事だけじゃ耐えられないわ。悩んでいるうちに一つの考えがひらめいたの。『もう一度、火事になればいいんだわ。そしたら、また、よっちゃんに会える』初めのうちは、そんな事はしちゃいけない、しちゃいけないって思ってたけど、とうとう、恋心の方が勝っちゃったのね」

「火を点けたのか?」

「そう、放火したの。でも、失敗してね、人に見つかって火は消されてしまうし、自分は捕まってしまうのよ。放火の罪は火あぶりの刑よ。七ちゃんは素直に放火の事を白状しちゃったわ。そして、火あぶりになって死んじゃったのよ」

「熱かったじゃろうのう。で、男の方はどうしたんじゃ?」

「自殺しようとしたけど人に止められて、高野山に登ったわ」

「ふん、つまらねえ男じゃ」

「あなたなら、どうする?」

「こうするよ」

「フフフ、優しくしてね。まだ十五の乙女なんだから」

「十五の乙女にしては酒臭えのう」

「お互い様でしょ。ねえ、五エ門さん、この刀、痛いんだけど」

「わかった。この帯も邪魔なんじゃがの」

「まったく、贅沢ね。でも、汚れそうだから脱ぐわ。ねえ、お互いに余計な物は、みんな、脱いじゃいましょ」

「そうするか」

「準備オーケイよ」

「よし」

「ちょっと、このヒラヒラしてるの邪魔よ」

「まだ、いいじゃろう」

「臭いのよ」

「そうか‥‥‥」

「あら、元気いいのね」

「そなたがいいオナゴじゃからのう」

「あら、嬉しい‥‥‥うぅ〜ん‥‥‥あたしのね、一番感じる所、ここよ」

「ここか?」

「そう、優しくしてね」

「‥‥‥」

「うん、いいわ‥‥‥痛い!」

「どうした?」

「これよ、石っころよ。背中の下にあったのよ。それに、藁(わら)をもっと敷いた方がいいわ。下がゴツゴツしてるんだもん」

「ごちゃごちゃ抜かすな」

「あぁ〜ん‥‥‥いいわぁ‥‥‥うぅ〜ん‥‥‥はぁ〜ん‥‥‥あぁ‥‥‥」

「おい」

「痛い! 放してよ」

「何の真似じゃ?」

「やっぱり、ばれちゃったか」

「ばれたかじゃねえ。何の真似じゃ?」

「気にしないで、冗談よ」

「何じゃと、お前は冗談で人の首に刃物を向けるのか?」

「ちょっと放してよ。みんな話すからさ」

「話してみろ」

「ああ、痛かった。ほんとに馬鹿力なんだから。腕が折れたらどうすんの?」

「何を言ってるんじゃ。わしの首を刺そうとしたくせに」

「あやまるわ。御免なさい」

「さあ、話せ」

「あのね、実は、あたしの夫の仇っていうのは、あなただったのよ」

「確かにか?」

「そうよ。針ケ谷なんて名前、滅多にないでしょ。でも、あんたは強いし、とてもじゃないけど、あたしには斬れないわ」

「それで、わしの寝首を掻こうと考えたのか?」

「そう。あたしに夢中になってれば大丈夫だろうと思って。あんたって本当に強いのね。あたし、死んだ夫じゃなくて、あんたの妻になってりゃよかったわ」

「そうか、わしが殺(や)ったのか‥‥‥」

「ねえ、あなた、あなたはあたしの仇討ちを助けてくれるって言ったわね。ねえ、お願いよ、助けて」

「お前、何を言ってるんじゃ。わしを殺すのをわしが助けるのか?」

「そうよ、一番簡単じゃない」

「馬鹿言うな」

「何よ、この嘘つき!」

「お前だって嘘ついたじゃろう」

「じゃ、おあいこか‥‥‥あたし、これから、どうしたらいいんだろう?」

「知らん」

「ねえ、よく考えてみて。あたしだけじゃないはずよ。あたしみたいな女が他にも何人もいるはずだわ。あたしがそういう悲しい女たちを代表して、あなたを斬るわ。だから、あなた、ねえ、協力してよ。死んで行った人たちの魂を弔ってやった方がいいよ」

「わしに坊主になれと言うのか?」

「坊主になったって駄目よ。あたしに斬られればいいのよ。どうせ、あなたもいつかは誰かに斬られるんだからさ、どうせなら、あたしに斬られて死んだ方がいいでしょ」

「今、わしはお前に斬られるわけにはいかん。わしはお前に斬られるために、今まで苦労して剣術の修行を積んで来たのではない」

「そんなの自分勝手よ」

「だから、もし、わしに隙があったら、いつでも、わしに斬りかかって来い。もし、わしがお前に斬られるようじゃったら、わしの剣術も役立たずじゃったと諦める。それでいいじゃろう」

「うん、まあ、いいわ。それじゃあ、そういう事にしましょ」

「ああ」

「寒いわ‥‥‥ねえ、抱いて」

「おい。わしとお前は仇同士じゃ」

「だって、途中だったじゃない。それとこれとは別でしょ」

「何が別なんじゃ」

「何がじゃないの、続きよ。仇同士になるのは明日からでいいじゃない」

「そうか‥‥‥今度は刃物なんか持つなよ」

「うん。持たない」

「よし。明日の朝まで休戦じゃ」

「う〜ん‥‥‥」


短刀(朱呂)

第三部 無住心 11.12.
2007年09月21日(金) 12:40

11




 次の日も五郎右衛門は日課通りに木剣を振ったりしていた。ただ、変わった事といえば、お鶴が食事を作ってくれる事と、どこからともなく飛び出して来ては、五郎右衛門に斬り付けてくる事だった。

 五郎右衛門はお鶴の刀を軽くかわし、お鶴の事など完全に無視しているがごとく木剣を振り続けている。

 彼が座禅をしている時は、後ろから忍び寄って斬ろうとするのだが、どういうわけか、お鶴は投げ飛ばされ、彼は座禅をしたままである。

 何度やっても同じだった。五郎右衛門を斬るどころか、触れる事さえできないのに反し、お鶴の方はもう傷だらけである。

「その顔、どうしたんじゃ?」と五郎右衛門は夕飯の時、お鶴に訊いた。

「あなたがやったんでしょ」

「綺麗な顔が台なしじゃのう」

「顔だけじゃないわ。体中、傷だらけよ、どうしてくれるのよ」

「もう、諦める事じゃな」

「あたしだって、やめたいわよ」

「やめればいいじゃろ」

「あたしは、あなたを憎んでるのよ」

「どうして?」

「あなた、鈍感なの? あたしの夫を殺したのはあなたなのよ。あたしは夫を愛してたのよ。とても、とても愛してたのよ。あなたを憎むのは当然でしょ」

「そりゃそうじゃ」

「でもさ、あたし、うまく、あなたを憎めないのよね。どうしてかな」

「わしがいい男だからじゃろう」

「あなた、冗談を言ってる場合じゃないのよ。あたしたち、仇同士なのよ。わかってるの? こうやって一緒にご飯を食べてる事だって、ちょっと、おかしいんじゃない?」

「そうでもないぞ。わしは楽しい。今晩も酒を飲もう」

「あなたはわかってないわ。こんな所、人様に見られたらどうすんの? あたしの立場がないじゃない。人はみんな、噂をするわ。亭主が死んで、まだ、一年も経ってないのに他に男を作って一緒にお酒を飲んで遊んでるって。みんな、あたしに後ろ指さすのよ。もっと、世間体(せけんてい)ってものを考えてよ」

「どこに世間体ってものがあるんじゃ? こんな山ん中にいて」

「確かに、ここにはないけど。いいでしょ。あたしはあたしに言い聞かせてるのよ。あたしだって、ほんとは今晩もあなたと一緒にいたいの。でも、それはいけない事なのよ。だから、あたしはもう帰るのよ。止めたって、あたしは帰るわ」

「帰る、帰るって言ってるが、全然、帰る気配なんて見えんのう」

「うるさいわね。あたしは自分に言い聞かせてるって言ったでしょ。そんなにあたしに帰ってもらいたいの? いいわよ。もう、あんたなんか勝手にするといいわ」

 お鶴は立ち上がり、五郎右衛門の木剣を杖代わりにして帰って行った。

「おい、お鶴さん」と五郎右衛門は彼女の後ろ姿に声を掛けた。

「おぬし、面白いオナゴじゃのう」

「ふん。もう、体中、痛くてしょうがないよ。明日はきっと起きられないわ」





12




 五郎右衛門は今日も木剣を振っている。

 昨日は相当まいったとみえて、今朝、お鶴は来なかった。五郎右衛門は木剣を振りながらも、お鶴の事が気になっていた。

 これではいかん!と、お鶴の事を断ち切るように木剣を振っても、お鶴の事が頭から離れなかった。

 小川を誰かが歩いて来る音がした。お鶴が来た、と思って五郎右衛門は振り返った。

 一人の坊さんが裾まくりして、杖を肩にかついで、ニコニコしながら、こっちに向かって来た。お鶴が世話になっている和尚だろう。

「成程、お鶴が惚れるのも無理ないわい」と和尚は五郎右衛門の顔を見ると言った。

「お鶴さんは大丈夫ですか?」

「なに、あのオナゴはそんなやわじゃない。今は痛い痛いと騒いどるが、明日になれば、また元気になるじゃろう」

「そうですか」

「ちょっと、お鶴に頼まれてのう。おぬしを斬って来いって言われたんじゃ」

「わしを斬る?」

「なに、坊主は殺生はせん。ちょっと、おぬしの顔を見に来ただけじゃ。お鶴の話じゃと、おぬし、悟りとかを捜しておるそうじゃな。悟りを捜すのは坊主だけかと思ったが、殺し屋稼業にも必要とみえるの」

「わしは殺し屋ではない」

「似たようなもんじゃ。人斬り包丁など振り回しておるのは人を殺すためじゃろ?」

「違う」

「悟るなどと無駄な事はやめて、さっさと山を下りた方がおぬしのためじゃ」

「わしが何をしようとわしの勝手じゃ」

「そりゃそうじゃがの。だが、無駄じゃと思うがの」

「無駄ではない」

「今のおぬしの剣は完全に死んどるのう。今のおぬしの剣では、わしのような坊主でさえ斬れんじゃろう」

「わしの剣は、そんなへなへな剣ではない」

「試してみるかな?」

「わしは坊主を斬る剣など持ってはおらん」

「喝!」と和尚は杖で五郎右衛門の頭を打とうとする。

 五郎右衛門はその杖を木剣で受け止める。

「どうじゃな? わしを打ってみる気になったかな? 立ち木よりは、わしの方が手ごわいぞ」

「よかろう。それ程、叩かれたいと申すなら、叩いてくれるわ」

 五郎右衛門はあらためて木剣を構えた。

 和尚は右手に杖を持って立っているだけである。

「構えろ!」

「わしは坊主じゃ。剣の構えなど知らん。遠慮せずにかかって来い」

 生意気なくそ坊主め!と五郎右衛門は軽く、小手でも打ってやるかと思った。が、なぜか、打ち込む事ができなかった。和尚を見ても隙だらけだ。しかし、打ち込む事ができない。こんな事は初めてだった。目の前の和尚が、やたらと大きく見えてきた。

 彼は木剣を清眼から上段に振りかぶった。それでも、どうする事もできない。足を動かす事さえできなかった。

 しばらく、二人は石のように動かず、向かい合っていた。

「どうじゃな?」と和尚が声を掛けた。

「負けた‥‥‥」と五郎右衛門は木剣を下ろした。

「わからん‥‥‥なぜじゃ? なぜ、わしは打ち込めなかったんじゃ」

「おぬしの心は何かに囚(とら)われておる。だから、わしを打つ事もできん。多分、今のおぬしは自分の剣に疑問を持ってるんじゃろう。剣術っていうのは人を殺すための技術じゃ。ところが、おぬしは、その人を殺すという事に疑問を持って来た。そうじゃないかな?」

「確かに、そうかもしれん」

「難しいのう」

「和尚は一体、何者なんです?」

「わしか、わしは愛洲移香(あいすいこう)じゃ」

「えっ」

「冗談じゃよ。わしはただの禅坊主じゃ。剣の事など知らん」

「和尚、わしは一体、どうしたらいいんじゃ?」

「まず、お前の体に染み付いている新陰流をすっかり忘れる事じゃな」

「えっ、新陰流を忘れる?」

「そうじゃ。木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし」

 そう言うと和尚はスタコラと帰って行った。

 『新陰流を忘れろ』とは、どういう事なのか? 

 五郎右衛門にはわからなかった。


陰の流れ《愛洲移香斎》第一部 陰流天狗勝

第三部 無住心 13.14.
2007年09月22日(土) 11:41

13




 和尚の言われるままに、五郎右衛門はさっそく座禅を始めた。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 新陰流を忘れろという事は、剣術を忘れろという事か?

 剣術を忘れろという事は、刀を捨てろという事か?

 刀を捨てろという事は、お鶴に斬られろという事か?

 お鶴に斬られるという事は、死ねという事か?

 死ぬという事は生きるなって言う事か?

 生きるなっていう事は‥‥‥

 お鶴は今、何してるんじゃろ?

 痛い、痛いと泣いているのか?

 いや、あの女が泣くわけがない‥‥‥

 いかん! お鶴は関係ない。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 わしは一体、何のために剣術をやって来たんじゃ?

 剣によって両親は殺された。

 わしは仇を討つために剣術を習った。

 多分、あの時のくだらん足軽は戦で死んだ事じゃろう。

 徳川家康も死んだ。

 わしは剣で人を殺して来た。

 自分が強くなるために、わしは人を殺して来た。

 お鶴の亭主も殺した。

 お鶴のように後家になった女も何人もいるじゃろう。

 あの時の子供もそうじゃ。まるで、昔のわしそっくりじゃ。わしのように剣術の修行を積み、わしを仇と狙うじゃろう。他にもそんな子供がいるに違いない。

 なぜ、こうなるんじゃ?

 剣というのは所詮、人殺しの道具に過ぎんのか?

 わしの親が剣によって殺される。

 そして、今度はわしが誰かの親を剣によって殺す。

 そして、次は、わしが誰かに剣によって殺される。

 この繰り返しじゃ。

 ぐるぐる同じ事が繰り返される。

 剣を捨てたからといって解決するもんじゃない。

 今、わしが剣を捨てたら、お鶴が喜んで、わしを斬るじゃろう。

 お鶴‥‥‥

 いかん! また、お鶴じゃ。お鶴は関係ない。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 あのくそ坊主め、わからん事を言いやがって‥‥‥

 畜生兵法(ちくしょうひょうほう)‥‥‥

 弱い者には勝ち、強い者には負け、互角の者とやれば相打ち‥‥‥

 当たり前じゃろ、そんな事。

 畜生! わからん‥‥‥

 木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし‥‥‥

 あのくそ坊主め、座ってたからといって、わかるわけねえじゃろう。

 しかし、なぜ、わしはあの坊主を打つ事ができなかったんじゃ?

 わからん‥‥‥不思議じゃ‥‥‥

 もしかしたら、あの坊主、天狗か何かか?

 昔、義経が鞍馬山で天狗に剣術を習ったとか聞いた事はあるが‥‥‥

 新陰流‥‥‥

 新陰流‥‥‥

 師匠は今頃、どうしてなさるか?

 もう年じゃからな‥‥‥

 兄弟子の神谷さんはどうしてるじゃろ‥‥‥

 神谷さんちの腕白坊主も、もう大きくなってるじゃろうな‥‥‥

 お雪ちゃんも、もう嫁に行ったじゃろうな‥‥‥

 松田、野口、中川、岡田、竹内、柏木、みんな、元気でやってるかのう‥‥‥

 江戸か‥‥‥

 久し振りに帰りたくなったのう‥‥‥

 新陰流とは?

「五エ門さ〜ん、元気?」とお鶴の声がした。

 五郎右衛門は目を開けた。

 もう、日が暮れかかっていた。

 お鶴が和尚の杖を突きながら、一升どっくりを抱いて、片足を引きずるようにして、こちらに向かって来た。

 五郎右衛門の顔を見るとニコッと笑って、「また、来ちゃった」と言った。

「どうしたんじゃ? その足」

「何でもないのよ。ちょっとした筋肉痛。昨日、ちょっと、はしゃぎ過ぎた罰よ」

「何も、そんな足で無理して来なくてもいいじゃろ」

「何よ、和尚さんに聞いたわよ。あたしが来ないので、あなたがしょんぼりしてるって」

「あの坊主、そんな事、言ったのか?」

「そうよ。だから、わざわざ、来てあげたんじゃない。それにさ、あたしもにっくきあなたの顔を見ないと落ち着かないしね」

「その足で、わしを斬るつもりか?」

「そうよ。隙を見つけたら斬るわよ。覚悟してらっしゃい」

「相変わらず元気じゃな」

「さてと、憎き仇のために飯でも作ってやるか」

「今日はいい」

「えっ? あたしの作ったご飯は食べられないっていうの?」

「そうじゃない。あのくそ坊主に言われたんじゃ。座禅しろってな。剣も振るな、飯も食うな、夜も眠るな。そして、座禅をしろってな」

「へえ、あんな和尚の言いなりになるの?」

「別に言いなりになるわけじゃないが、今まで通り、毎日、剣を振ってても何も解決しなかったんでな、ちょっと、やり方を変えてみようと思ったんじゃ」

「それじゃあ、当分、ご飯、食べないの?」

「ああ」

「夜も寝ないの?」

「ああ」

「体、壊したらどうするの?」

「そしたら、お前がわしが斬ってくれ」

「そうか、それはいい考えよ。早く、倒れてね」

「残念じゃが、そう簡単には倒れん」

「まあ、頑張ってね。あたし、お酒、持って来たんだけど、これも飲めないわけね?」

「ああ。持って帰ってくれ」

「そうはいかないわ。せっかく苦労して持って来たんだもん。あたし、一人でも飲むわ」

「勝手にしろ」

「ええ。あなたはずっと座ってればいいのよ。あたしはご飯食べて、お酒飲んで、ゆっくりと寝るわ」


酔中画2-w015







14




 五郎右衛門は座っていた。

 お鶴は飯を作って、五郎右衛門に見せびらかしながら一人で食べた。

「ああ、おいしかった。あなた、ほんとに食べないの?」

 五郎右衛門は目をつぶって黙っていたが、腹の虫は騒いでいた。

「さてと、お酒でも飲もうかな」

「飯を食おうと酒を飲もうと構わんがのう、少し、静かにしてくれんか」

「あら、気が散るの? 修行がなってないわ。あたし、あなたの修行のお手伝いしてやってるのよ、わかる? 静かな所で座ってたって、何の修行にもならないわ。こんな山の中にいれば自然と心は落ち着いて来るものよ。でも、山から下りて町の中に戻ったら、また、心は乱れて、もとに戻っちゃうのよ。お寺の中にいるお坊さんが悟ったような顔をしていても、お寺から一歩出たら普通の人に戻っちゃうのと同じよ。そんなの悟りでも何でもないじゃない。本物の悟りっていうのは『真珠』みたいなものでしょ。本物の『真珠』っていうのは、どんなに汚れたドブ川に落ちたって、決して、汚れに染まったりしないで綺麗なままなのよ。あなたもそういう境地まで行かなきゃダメよ。わかる? あたしがそばで騒いでても全然、気にしない。うまそうな匂いがしても全然、気にしない。そばで、あたしがうまそうにお酒を飲んでても全然、気にしない。しかもよ、あなたのすぐ目の前に、すごくいい女がいても全然、気にしない。その位にならなきゃダメよ」

「うるさい!」

「ダメね。あなたはすごくいい環境の中で修行できるんだから、あたしに感謝しなけりゃダメなのよ。ねえ、一緒にお酒飲みましょ。おいしいわよ‥‥‥ねえったら‥‥‥堅物(かたぶつ)ね。そんなに堅くなってちゃ悟りなんて開けやしないわ。本物の『真珠』ってのはね、汚れる事なんて恐れないのよ。平気で汚れの中に入って行くのよ。それでも、ちっとも汚れない。汚れを避けてちゃダメだわ。汚い物にフタをして隠したってさ、汚い物は消えたりしないわ。ちゃんとあるのよ。お酒を飲んだからって、修行の妨げになるわけじゃないでしょ。飲みたけりゃ飲めばいいのよ。それが悟りよ。わかった?」

 五郎右衛門は目を開ける。

「飲む気になったのね?」

「小便じゃ」と五郎右衛門は外に行く。

「あら、おしっこもしないんじゃなかったの?」

「馬鹿者、垂れ流しなんかできるか」

「そんな中途半端な修行なんか、やめちゃいなさいよ」

「うるさい!」

 五郎右衛門は帰って来ると、また座った。

「また、座るの? よく飽きないわね。一体、目なんかつぶって、何考えてるの? あたしの事でしょ。ね、違う? ああ、つまんないの」

 お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、しばらく、音も立てずに黙っていた。

 五郎右衛門はお鶴の気配が消えたので、気になって目を少し開けてみた。

「やった。やった」とお鶴は喜んだ。「やっぱり、あたしの事が気になるんでしょ。あたし、賭けてたのよ、あなたが目を開けるかって。もし、目を開けなかったら、あたし、泣いちゃったわよ。あたしって、そんなに魅力がないのかしらって。でも、よかった。やっぱり、あなた、あたしの事、好きなんだわ」

「うるさい!」と言うと五郎右衛門は目を閉じた。

「頑固ね、まったく‥‥‥そうだわ、ねえ、あなた、こういうの知ってる? 今日ね、あたし、剣術の事、調べたのよ。お寺にね、剣術の本があったの。和尚さんに読んでもらってね。あたし、ちょっと写して来たのよ。いい、読むわね?

 初めは我が心にて迷うものなり。

 われと我が心の月をくもらせて、よその光を求めぬるかな。

 人の心を知る分別、第一なり。

 善も友、悪も友の鏡なる、見るに心の月をみがけば。

 やめる、捨てる、分けるも一つにも心次第なり。

 有(あり)の実と梨という字は変われども、食うに二つの味はなし。

 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。

 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」

「待て! もう一度、心のっていう所から言ってくれ」

「いいわ。心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」

「いいぞ、続けてくれ」

「遊身(ゆうしん)にならず仕掛ける事、第一なり。

 解きもせず、言いも得ざりし所をも、知りぬ物ぞと知るぞ知るなれ。

 いつも、敵を見下したる心持ちよし。

 引き上げて、嶺(みね)に庵(いお)をばむすべかし、谷へは月の遅く出(い)でるに。

 空(くう)の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。

 敵の動きの未だ無の前以前に、先に進む志し、少しにてもあれば、場より内へは聊爾(りょうじ)に入りこまぬものなり。

 止まるにも進む志しあれば、おのずから映るなり。

 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。

 どう? 何か、ためになった?」

「ああ‥‥‥そいつは新陰流じゃないのか?」

「うん、そうみたい。上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)の歌だって、和尚さんが言ってたわ。あたしもね、これ読んで考えたのよ。この間の晩の事よ。あなたはいつでも回りに気を張って警戒してるわね。あたしを抱いてる時もあなたはそうだったわ。あたしはあたしで、あなたを刺してやろうと思いながら、あなたに抱かれてた。よくわからないけどさ、あなたがあの時、あたしの事を警戒してたから、逆にあたしはあなたを刺そうと思ったのかもしれない。結局は失敗しちゃったけどさ。もし、あの時、あなたがあたしの事を警戒しないで、あたしに夢中になっていてくれたら、あたしもあなたに夢中になっちゃって、あなたを刺す事なんて忘れちゃったかもしれないわ‥‥‥あたしにはよくわからないけど、『よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ』って、そういう事じゃないの? どう思う?」

「俺にもわからん」
第三部 無住心 15.16.
2007年09月23日(日) 12:00

15




 五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。

 お鶴は持って来た酒を一人で全部、飲みほすと、朝までぐっすりと眠った。

 目を覚ますと、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、彼が返事もしないでいると、「何だ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。

「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。

「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた?」

 五郎右衛門は返事をしない。

「さてと、朝飯前に水でも浴びよう。あなたも水浴びしない? 気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。

 五郎右衛門は疲れていた。

 昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。

 新陰流を忘れ去るとは‥‥‥

 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥

 心の止まり居着く所とは? 新陰流の事か‥‥‥

 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 よしあしと思う心とは? 新陰流の事か‥‥‥

 何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。

 お鶴は水浴びから帰って来なかった。そのまま、寺に帰ったのだろう。

 不思議な女じゃ‥‥‥あの女、変な事を言ってたな。わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかっただろうと‥‥‥

 昔、馬術をやっていた時、『鞍上に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥

 くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。

 剣とは?

 五郎右衛門は座り続けた。

 昼頃、和尚がやって来た。

「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか?」

「わからん」

「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」

「何じゃと!」

「喝! そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」

「和尚が座れと言ったんじゃろう」

「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。

「くそ坊主め! 目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」

 五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。

 和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。

「あら、今度は目を開けて座ってんの? その方がいいわ。ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた?」

「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」

「ふうん‥‥‥」

「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」

「ハハハ、あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」

「何じゃと!」

「怒っちゃダメよ。怒ったら、和尚さんの思う壷よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」

「わからん」

「それで、今日もずっと座ってるつもりなの?」

「ああ」

「つまんない。せっかく遊びに来たのに」

「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」

「五エ門ちゃん、遊ぼ」

「うるさい」

「あたし、泣いちゃうから」

「勝手に泣け」

「そうだ、睨めっこしましょ」とお鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとする。

 五郎右衛門は無視しようと頑張るが思わず笑ってしまう。

「やったあ、笑った」とお鶴は子供のようにはしゃいだ。

「お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れている。

「そうよ。今のあたし、一番幸せ」

「わしらは仇同士じゃなかったのか?」

「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと、会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌に感謝してるの」

「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」

「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」

「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」

「女っていうのはね、幸せにならなきゃダメなのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」

「お前もわりと苦労したみたいじゃな」

「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目がいくらか、潤んでいた。

「馬鹿ね、あたし」とお鶴は後ろを向いて目を拭いた。

「さっきの和尚さんの話だけどね、あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば、座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」

「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め!」

「ねえ、見て。変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」

「お鶴さん、酒はあるか?」

「えっ、お酒飲むの?」

「今晩、一緒に飲もう」

「ほんと? もう座るのやめたの?」

「ああ、抜けがら座禅は終わりじゃ」

「やった! そうじゃなきゃ、あたしの五エ門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。

 よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。

 木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。

 新陰流の形はやらなかった。

 何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように滝に打たれた。








16




「昔々‥‥‥」とお鶴は酔いにまかせて話を始めた。「ある所に可愛い女の子がいました」

「ほう、どのくらい可愛いんだ?」

「ちょっと、やめて。あたし、真剣なんだから‥‥‥その女の子はね、両親に先立たれて親戚に預けられました。その親戚の人たちは悪い人たちで、その女の子を人買いに売ってしまいました。でもね、仕方がなかったのよ。生活が苦しくてね、その子を売るしかなかったの。親戚のおば様は何度も何度も、女の子に謝っていたわ‥‥‥女の子はお女郎屋に連れて行かれて、毎日、毎日、こき使われました。まだ、つぼみのうちからお客さんを取らされて、毎日、毎日、泣いていました。ある日、女の子は恋をしました。初恋ね。そして、女の子はその男の子と一緒に逃げました。二人共、まだ子供よ。すぐ、お金に困ったわ。どうする事もできない。女の子は男の子のために、自分からお女郎屋に身を売ったわ。男の子はきっと迎えに来ると言ったまま、二度と女の子の前には現れなかった‥‥‥女の子はきっと来てくれると信じ込んで、辛い毎日を耐えていました。その女の子は器量がよかったので、今度は、お侍の側妻(そばめ)として買われて行きました。そのお侍のお屋敷はとても広くて、女の子のように買われて来た側妻が五人もいたわ。女の子はお女郎の時に比べれば、身なりもいいし、おいしい物が食べられたけど、夢もなく、毎日を過ごして行きました。何の変哲もないぬるま湯のような日々が半年近く続きました。ある日、五人の若いお侍たちが、そのお屋敷に訪ねて来たのよ。そのお屋敷の主人はお殿様から、その五人を密かに毒殺せよと命じられていました。女の子はふとした事から、その事を知ってしまいます。知ったからといって、女の子にはどうする事もできませんでした。お酒のお酌をするために、女の子も他の側妻たちと一緒に、お客様の前に呼ばれました。女の子は命じられたまま、お客様に毒入りのお酒をお酌しようとしました。ところが、なぜか、目の前に座っているお侍さんの顔を見て、この人を殺してはいけないと思いました。そして、それとなく、お酒に毒が入っている事を教えました。でも、そのお侍さんはお客として、出されたお酒を飲まないわけにもいかず、一杯めは飲んでしまいました。しかし、それ以上は飲みませんでした。お陰で、そのお侍さんだけは何とか死なずに済みました。女の子はこの事がばれたら殺されると思い、夜になるとこっそり、そのお屋敷を逃げ出しました。しかし、すぐに捕まってしまい、さんざ痛め付けられたうえ、川に捨てられました‥‥‥もう、やめましょ。こんな話、つまんないわ」

「いや、わしは聞きたい。それから、その女の子はどうなったんじゃ?」

「悪運が強いのよ。女の子は助かったわ。まだ、若い夫婦だったけど、二人は女の子の面倒をよく見てくれたわ。女の子は元気になったの。でもね、女の子は何もしてないのに、そこのおかみさんが嫉妬して、また売られちゃったのよ。また、お女郎に逆戻り、毎日毎日、違う男に抱かれて‥‥‥夢も希望もない生活。一度、この世界に入ってしまったら、もう泥沼のように抜け出せないの、もう‥‥‥可哀想ね‥‥‥でも、どこにでもあるお話だわ‥‥‥お女郎屋からお女郎屋へと流れ流れて‥‥‥」

「どうしたんじゃ? それで終わりか?」

「ここで終わっちゃったら、女の子が可哀想すぎるよ。ちゃんと幸せになるのよ。ある日、突然、その女の子の前に、毒を飲まずに助かったお侍さんの使いの者が迎えに来るの。まるで、夢みたいだったわ。やっと泥沼から抜け出せる。しかも、あの人のもとへ行ける‥‥‥女の子は泣いたわ。嬉しくて、嬉しくて、泣いたの‥‥‥女の子はそのお侍さんの奥さんになりました。幸せな毎日が続きました。夢のような毎日でした‥‥‥しかし、その幸せも一年と長続きしませんでした。夫は剣の試合をして死にました。女の子は仇を討つために旅に出ました。これで、おしまい‥‥‥つまんない話をしちゃったわね」

「そんな事はない。いい話じゃった‥‥‥それで、その女の子は仇は討てたのか?」

「ええ‥‥‥うまく討てたわ」

「そうか‥‥‥そいつはよかった」

「なんか、湿っぽくなっちゃったわね」

「‥‥‥」

「空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり〜」

「いい唄じゃな」

「つまらない唄よ‥‥‥もっと、陽気な唄を歌いましょ、ね」

 お鶴はわけのわからない聞いた事もないような唄を陽気に歌い始めた。

 五郎右衛門はわざと陽気に騒いでいるお鶴を眺めていた。
第三部 無住心 17.18.
2007年09月24日(月) 14:13

17




 五郎右衛門は朝から木剣を振り続けていた。

 昼頃、和尚がのっそりと現れた。

「おっ、また棒振り禅を始めたな」

「和尚、教えてくれ。新陰流を忘れろとは、どういう事なんじゃ?」

「まだ、そんな事、言っとるのか?」

「わしにはわからん」

「それじゃよ。その構えをやめる事じゃ」

「構えをやめる?」

「そうじゃ。いちいち構えるな。構えあって構えなしじゃ。行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。喝!」

 それだけ言うと和尚は帰って行った。

 五郎右衛門は木剣を持ったまま、たたずんでいた。

「行くな‥‥‥戻るな‥‥‥たたずむな‥‥‥立つな‥‥‥座るな‥‥‥知るも知らぬも‥‥‥何じゃ、こりゃ?‥‥‥構えあって構えなしじゃと‥‥‥くそ坊主め、わけのわからん言葉を並べやがって‥‥‥くそったれ!」

 五郎右衛門は立ち木を思い切り木剣で殴った。

 休まず、殴り続けた。

 頭の中にかかっている靄をすべて、叩き出してやろうと五郎右衛門は立ち木を打ち続けた。

 日暮れ前、お鶴が酒をぶら下げてやって来た時、五郎右衛門は立ち木の側に倒れていた。

「ちょっと、五エ門さん、そんな所で寝てると風邪ひくわよ」

 お鶴は五郎右衛門を揺すり起こそうとしたが無駄だった。

「どうしたんだろ? 死んじゃったのかしら?」

 お鶴は小川から水を汲んで来て、五郎右衛門の顔をめがけて、思いきりぶっ掛けた。

 ウーンと唸ると五郎右衛門は気がついた。

「五エ門さん、ダメよ。あたしに内緒で死んじゃ」

 五郎右衛門は立ち上がる木剣を拾い、素早く一振りした。

「違う‥‥‥」

「どうしたの?」

「倒れる前、何かがわかりかけたんじゃ‥‥‥何かが‥‥‥」

「そう、もうすぐだわね」

 次の日も、吹雪の中、五郎右衛門は倒れるまで立ち木を打っていた。

 そして、お鶴が水を掛けると目を覚ました。






18




 珍しく、お鶴は昼前にやって来た。

 五郎右衛門は立ち木を相手に木剣を振っていた。

「今日はこれまで」とお鶴は五郎右衛門の前に立ち、とっくりを見せた。

「毎日、同じ事ばかりやってても、つまんないでしょ。今日はちょっと気分転換しましょ」

「昼間から酒を飲むのか?」

「そう。お花の下でお酒を飲みましょ。今、桜が満開なのよ」

「馬鹿言うな。桜なんか今頃、咲いているか」

「山の中だから遅いのよ。今、丁度、満開なんだってさ」

「花見なぞに興味ないわ」

「そう言うと思ったわ。でもね、陰流の流祖で愛洲移香斎(あいすいこうさい)って人、知ってるでしょ?」

「ああ、知ってる。上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)殿のお師匠様じゃ。それがどうした?」

「その移香斎って人が悟りを開いたっていう洞穴が、その桜の木の側にあるんですって」

「嘘つくな。移香斎殿が悟ったのは日向(ひゅうが)の国(宮崎県)じゃ」

「あたし、そんなの知らないわよ。でも、このお山にもあるんだって、和尚さんが言ったのよ」

「あの和尚の言う事は当てにならん」

「行ってみなけりゃわからないわ。ねえ、行きましょ。たまには剣の事を忘れてみるのもいいわよ。『何事もなき身となりてみよ』っていうでしょ。ねえ、行きましょうよ。お弁当もお酒も用意して来たのよ」

 お鶴に誘われるまま、五郎右衛門は出掛ける事にした。ここらで気分転換してみるのもいいだろうと思った。

 五郎右衛門は今、分厚い壁にぶち当たっている。正攻法でいくら攻めても壊れそうもない。この辺でちょいと搦(から)め手から攻めてみようと思った。

 不思議な事に、お鶴の言った通り、桜は満開だった。

「あたし、初めてよ。桜の花の満開の下でお酒を飲むの。あたし、一度、やってみたかったのよ。好きな人と二人っきりでさ」

「わしも初めてじゃ。何だかんだと忙しくて、のんびりと桜の花など見た事もなかったわ。実に見事なもんじゃのう」

「はい、どうぞ」とお鶴五郎右衛門の酒盃(さかずき)に酌をした。

「まさか、毒は入ってないじゃろうな」

「さあ、どうだか‥‥‥入ってるかもしれないわね。何しろ、あなたはあたしの仇なんだから。飲んでみる?」

「死んだら、わしの供養をしてくれ」

「任せといて」

 五郎右衛門は酒盃をあけた。

「うまい」

「フフフ、飲んだわね。あなたはもうすぐ死ぬわ。今度はあたしにお酌して」

 二人の酒盛りが始まった。

「松により散らぬ心を山桜、咲きなば花の思い知らなむ〜」

「何じゃ、そりゃ?」

「西行(さいぎょう)法師の歌よ。あたしのね、父親は歌詠みだったわ。意味はよくわからないけど、この歌だけは今でも覚えているの。桜が咲いている頃、父親は亡くなったわ。そして、母親も次の年に亡くなった‥‥‥だから、あたし、桜の花が嫌いだったのかもしれない」

「今はどうなんじゃ?」

「今は好きよ。こんな綺麗な花はないわ。パッと咲いて、パッと散る‥‥‥それが一番いいのよ。さあ、じゃんじゃん飲みましょ。はい、五エ門さん」

「かたじけない」

「なに、他人行儀な事、言ってんのよ。あたしたちは普通の仲じゃないのよ」

「どんな仲じゃ?」

「やだ、すぐ忘れるんだから、仇同士じゃない」

「仇同士っていうのは、こんなに親しい仲なのか?」

「そうよ。憎さあまって愛しさ百倍って、昔からよく言うじゃない。あたし、もう、あなたの事が憎くって憎くってしょうがないんだから。あなたはどう? あたしの事、憎い?」

「ああ、憎いのう」

「まあ、憎らしい。いいわ、あたし、あなたのために踊ってあげる」

 お鶴は満開の桜の下で、鶴のように舞い始めた。


西行のすべて



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