人間に興味を持った妖精のラーラが現在過去未来と遊びながら、少しづつ人間を理解していきます。
第一部 月影 6.7.
2007年07月01日(日) 12:18




 テレビの画面

 都会の夜。

 ヨレヨレのコートを着て巨人軍の野球帽をかぶっている男(健二)、繁華街をさまよい歩いている。

 健二、あるマンションの前まで歩いて来る。酔っ払って足がフラフラしている。

 マンションを見上げる。いくつかの窓から明かりが漏れている。

 健二、マンションに入って行く。

 マンションの中、ある階の廊下。

 健二、エレベーターから出て来て、適当なドアをノックする。

 返事はない。隣のドアをノックする。

 女の声「あなたなの?‥‥‥遅いじゃない」

 ドアが開く。健二、中に入る。ドアが閉まる。

 マンションの一室。

 ドアにもたれて女を眺めている健二。

 女はナイトガウンをはおり、片手にウィスキーのグラスを持って立っている。

女 「あなた、誰?」

健二「‥‥‥」

 女に近づいて行く健二。後ずさりする女。

 テーブルに高級なスコッチとグラスが置いてある。

 ステレオから流れるショパンのピアノ。

女 「あなた、誰なの?」

健二「‥‥‥(女を見つめ、ニャッと笑う)」

女 「わたしに何の用です?」

健二「用?」

 健二、テーブルの前のソファーに座り込み、スコッチをグラスに注ぎ、一息に飲み干す。

女 「何の用なの? 早く言ってよ」

健二「いい酒だ」

 部屋の中を見回す健二。グラスにもう一杯、スコッチを注ぎ、一口なめる。

健二「あなたに死んでもらいたいんですよ」

女 「冗談、言わないでよ」

健二「冗談ではありません。あなたは選ばれたんですよ」

女 「何、言ってんの。どうして、わたしが選ばれなければならないのよ」

健二「それが、あなたの運命なのです。運命に逆らってはいけません」

女 「勝手な事、言わないでよ。わたしはまだ生きていくわ」

健二「それはできません。僕はあなたを殺さなければならないのです。それが、僕に与えられた運命なのです。運命に逆らうわけにはいきません」

 グラス越しに女を見ている健二。急に笑い出す女。

女 「あなた、気違いでしょ。病院、抜け出して来たのね?」

健二「僕は正常です。世の中の方が狂ってるんですよ」

 笑っている女。

女 「そうね、きっと、あなたは正常よ。でもね、わたし、暇じゃないの。あなたと遊んでる時間はないのよ。もう病院にお帰りなさい」

健二「そう急ぎなさんな。のんびりしましょう。ゆっくり座って、このうまい酒を楽しみましょう」

 健二、静かにスコッチを飲む。

 女、健二の向かいに腰を下ろし、健二を見ながら、今まで手にしていたスコッチを飲む。

 健二、女のグラスにスコッチを入れてやる。

健二「ねえ、あんた、いい女だね」

 健二、自分のグラスを女のグラスに当て、女の顔を見て笑う。

女 「そう‥‥‥ありがとう」

 女、グラスを手に持ち、ソファーの背にもたれ、健二を見つめる。

女 「わかったわ。あなた、小池さんに頼まれたんでしょ。ね、そうでしょ。お金ならあげるわ」

健二「この酒は実にうまいですね。あんたは綺麗だし、音楽も悪くない‥‥‥」

女 「ね、いくら欲しいの? 五十万でいいでしょ。わたし、百万なんて持ってないわ、本当よ」

 女、グラスを置いて立ち上がろうとする。

健二「僕は小池さんなんて知りませんね。それに金なんて欲しくない。欲しいのは、あんたの命だけですよ」

女 「気違い! 警察、呼ぶわよ」

 女、立ち上がり、電話の所に行く。

 健二、テーブルの上のタバコケースからタバコをつまみ出し、口にくわえる。

健二「早く、電話したらどうです。僕は止めやしませんよ。ただし、警察だって暇じゃない。あんたがわめいたって、やって来やしませんよ。もっとも、あんたが死んでからなら、サイレン鳴らして喜んで飛んで来ますけどね。死んでから連絡しなさい」

女 「本当に警察、呼ぶわよ」

健二「どうぞ、ご自由に」

 女、受話器を取るが、ためらっている。

 健二、タバコに火を付け、煙を吐く。

 女、受話器を戻す。

女 「お願い、出て行って‥‥‥」

 健二、タバコを灰皿でもみ消して立ち上がり、穏やかな顔でゆっくりと女の方に近づく。

 女、後ずさりするが、壁の所で健二に捕まる。

女 「助けて、何でもあげるわ。宝石なら、あそこにあるわ。本当は百万円もあるのよ。ほら、あの中に隠してあるわ。ね、みんな持ってっていいわ」

健二「これは避ける事のできない運命なんですよ。気持ちよく諦めて下さい」

 健二、女の首にゆっくりと手をかける。

女 「ね、冗談はやめて。あなたに何でもあげるわ。わたしの体も好きにしていいわ」

 女、ガウンを脱いで、健二に抱き着く。

女 「ね、わたしを抱いて、ね、お願い‥‥‥」

 健二、顔色も変えずに、少しづつ手に力を入れていく。

女 「お願い、命だけは助けて‥‥‥」

 健二、女の首を絞めていく。

女 「やめて! 気違い!」

 あばれる女。

女 「誰か来て!」






酔中画2-Y034







「あなた、どうしたの?」と麗子が昭雄を見て言った。

 昭雄は頭を抱えるようにして唸っている。

 突然、昭雄の脳裏にテレビの画面と同じシーンが浮かんで来た。自分がまだ子供の頃、見たシーンなのか、それとも、生まれる前の事なのか、よくわからないが、はっきりと、ある男がある女の首を絞めているシーンが浮かんで来た。しかも、その男の顔も女の顔も確かに見覚えがあった。名前まではわからないが、確かに、その二人の事は知っていた。そして、首を絞められて苦しみもがいている女の顔がありありと見えて来るのだった。昭雄はこんな幻想など吹き飛ばそうと努力してみるのだが無駄だった。

「どうしたの、大丈夫?」という麗子の声が遥か遠くから聞こえて来るような気がした。

「助けて!」テレビの中の女が最期のかすれた悲鳴をあげた。

「やめてくれ!」昭雄は叫んだ。そして、麗子の首を両手でつかみ、自分では意識せずに麗子の首を絞めていた。

「冗談はやめてよ。ね、あなた、どうしたの? 苦しいわ‥‥‥ちょっと、やめてったら‥‥‥」麗子の声が脳裏から消えない女の悲鳴とだぶった。

 女はぐったりとして倒れた。

 昭雄の脳裏から幻影は消え去った。

 健二は倒れている女を無表情に見下ろしていた。静かに流れるショパンのピアノ。

 麗子は食卓の上にぐったりと死んでいた。

 部屋の隅では赤ん坊が泣いている。

 窓の外からは酔っ払いのわめき声と飲み屋から流れる音楽。

 昭雄は呆然とテレビを見ていた。

 健二はスコッチをラッパ飲みしながら、夜の街をさまよい歩いていた。
第一部 月影 8.9.
2007年07月02日(月) 18:48




 早朝の都会。

 主役のいないコンクリートの長い廊下。

 新聞配達の兄ちゃんが新聞を投げながら走って行く。

 アパートの二階から、気持ちよさそうに寝ている赤ん坊をおんぶした昭雄が出て来る。

 ひっそりとした繁華街。狭い路地の両側に並ぶゴミ袋の山。

 昭雄は地下鉄の入口に消えて行く。

 電車の中、不器用に赤ん坊にミルクを飲ませている昭雄。

 疲れた顔の人々が無関心に昭雄と赤ん坊を見ている。

 窓から見える田舎の風景。

 昭雄と赤ん坊、山道を歩いている。

 歌を競い合っているヒバリとウグイス。

 カゴを背負った農婦、昭雄とすれ違う。穏やかな顔で頭を下げる。昭雄も真似をする。

 赤ん坊は昭雄の背中ではしゃいでいる。

 空を見上げる昭雄。

 あまりにも空が青すぎる。あまりにも太陽がまぶしすぎる。そして、すべてが、あまりにも自然すぎると思った。


酔中画3-E022









 広い座敷の真ん中で、赤ん坊は大きな布団の中で夢見るように眠っている。

 隣の部屋では昭雄が麗子の父、母、祖母と一緒に食卓を囲んで酒を飲んでいる。

「やっぱり、麗子には都会の空気は合わなかったんだね」と祖母が悲しそうに言った。

「それにしたって、あんなに若いのに死ぬなんて‥‥‥」と母親は涙を拭く。

「都会なんて、人間の住む所じゃねえ」と父親はコップ酒を飲み干した。「まったく、気違えばかりだ」

 昭雄は父親のコップに酒を注いでやる。

「ありがとう。あんたもあんな都会なんかにいないで、ここにいればいい」

「そうですよ」と母親。「静かな田舎にいた方がいい絵が描けるでしょうに」

「ええ、そうですね」と昭雄は言う。

「あなたも色々と疲れたでしょう。しばらく、ここで、のんびりした方がいいですよ」と祖母は言った。

「英雄だって可哀想ですよ。お母さんがいなくなって、そして、今度はお父さんとも離れて暮らさなけりゃならないなんて‥‥‥」母親はハンカチて目を押さえながら、眠っている英雄の方を見ている。

「すみません」と昭雄。「英雄の事、よろしくお願いします」

「あの子だと思って育てますよ‥‥‥心配しないで、死んだ麗子のためにも、いい絵を描いて下さい」
第一部 月影 10.
2007年07月03日(火) 12:49

10




 ねえ、ちょっと聞いて。

 どうして、人間て、今、こんなにもいっぱいいるの?

 あたしが生まれた時なんて、ほんの少ししかいなかったわ。でも、みんな、いい人間ばかりだった。だって、みんな、あたしの事、ちゃんと気づいてくれたわ。みんな、あたしの事、綺麗だとか可愛いって言ってくれたのよ。でも、今の人たちは何? あたしの前を通ったって、全然、あたしの事なんて見てくれないわ。

 いつから人間はめくらになっちゃったの?

 何を考えながら生きてるんだか知らないけど、難しい顔なんかしちゃって、みんな、足元ばかり見て歩いてるわ。足元を見なくちゃ歩く事もできないのかしら。そのくせ、石につまづいて転ぶんだから、どこに目がついてるんだろ‥‥‥どうせ、大した事、考えてないんでしょ。自分のご飯より他人の方が多い、少ないとか、うまそう、まずそうだとか、自分の巣の方が他人より大きい、小さいだとか、自分の方が他人よりも無駄な物をいっぱい持ってるとか、他人から偉いと思われたいとか、結局、自分の事しか考えてないんでしょ。

 ちゃんと目がついてるんだから、もっと色々な事を見なけりゃ損だよ。勿体ないよ。まるで、望遠鏡を覗いてるみたいにさ、ほんの一部しか見ないなんて。それに、もっと悪いのは、色の付いた望遠鏡を覗いてる人間もいるね。これなんか、最悪だよ。もう救いようがないね。もっと、もっと大きいんだよ、世の中っていうのは‥‥‥それに綺麗だしさ。ほんと、楽しくやらなきゃ。

 あたしがこんな事、言ってみたってしょうがないか。今まで、望遠鏡で世の中を見て来た人間が、急に望遠鏡をはずしたら視界が広くなりすぎて、どこを見たらいいか、わかんなくなっちゃうね、きっと‥‥‥

 でもね、最近、ほんと、あたしに気がついてくれる人間、少ないよ。少なすぎるよ。それに最近はほとんど、お爺ちゃんだよ。若い人なんか、全然、見ようともしない。情けないな。もっと、しっかりしなくちゃ駄目だよ。

 そうね、この前、来た若い人っていえば、確か、お坊さんだったわ。人間の時間にしたら、かなり昔になるんでしょうね。そのお坊さん、お経を唱えながら、怖い顔して山に登って来たわ。勿論、あたしには気がつかなかったけど面白かったわ。そのお坊さん、なかなか、いい男だったし、真剣に困っている人たちの事を考えてたの。あたし、彼を色々とからかってやったの。お坊さんてなぜか、女の人嫌いでしょ。だから、あたし、人間の女に化けて色々と彼を悩ませちゃった。ほんと面白かったわ。でも、彼、山を下りる時は晴れ晴れとさっぱりした顔をして、ちゃんと、あたしに気づいてくれて、あたしに合掌までしてくれたのよ。あたし、もう嬉しくて、また、人間に化けて彼の後をついて行こうかなって考えたくらいよ‥‥‥ほんと、いい男だった‥‥‥もう、とっくの昔に死んじゃったんでしょうね。山から下りて、彼が何をしたのか、あたしは知らないけど、きっと、みんなのために頑張ったんでしょうね‥‥‥

 あ〜あ、人間の命なんて短いのね‥‥‥

 あっ、誰か来る。若い男だわ。スケッチブックなんか抱えてるわ。絵画きの卵ってとこかしら。あまり、人相、よくないな。何か悪い事でもして来たのね。自分の心に反する事をして来た顔だわ。あんな顔してたら、あたしに気づくはずはないわ。まだ若いのに可哀想ね。彼はきっと、この先、ひどい世界をさまよい歩く事になるわ‥‥‥あっ、あたしの前で止まった。やっぱり、あたしには気づかないわ。山の方を見ている。彼、わりと可愛いじゃない。そうだわ、もし、彼が泉の水を飲んだら、助けてやってもいいわね‥‥‥どうかな、飲むかな?

 まだ、山の方を見てるわ。やっと、歩きだした。泉の前を通る。チラッと泉を見るけど、そのまま行くのかな‥‥‥いえ、荷物を下に置いたわ‥‥‥飲んだ、飲んだわ‥‥‥まだ、見込みあるじゃない。よし、決まりね。彼と遊ぼう。

 あっ、そうだ。その前に彼を若返らせなくっちゃ。今の彼じゃ、もう立ち直れないわ。せめて、罪を背負っていない頃、人間時間で三年前まで戻しちゃお。
第一部 月影 11.12.13.
2007年07月04日(水) 12:22

11




 泉の水を両手ですくって飲んでいる昭雄。

 飲み終わって、しばらく呆然としているが、我に返って荷物を持つと山道を歩いて行く。

 鳥の鳴き声。

 虫の鳴き声。

 川のせせらぎ。






12




 滝のある風景。

 昭雄は石に腰掛け、スケッチをしている。スケッチブックには風景とはまるっきり違う抽象的な絵が描かれてある。

 昭雄は子供の頃の自分を見つめていた。

 昭雄の祖父、二郎は絵画きだった。子供の頃、昭雄は二郎のアトリエに行っては遊んでいた。それは古い大きな家の中にある薄暗い部屋だった。壁には色々な絵が飾ってあり、テーブルの上には絵の具や筆が散らかっていた。子供の頃の昭雄にとって、あの油絵の具の匂いが、何とも言えず秘密めいた感じで好きだった。

 ある日、昭雄が二郎のアトリエに行った時、二郎は滝のある風景を描いていた。

「それ、どこ?」と昭雄は聞いた。

「お爺ちゃんの思い出の場所だよ」二郎は優しい目で昭雄を見ながら言った。

「どこにあるの?」

「お爺ちゃんの心の中にあるんだよ」

「ふうん‥‥‥」勿論、昭雄にはわからなかった。でも、きっと、この風景はどこかの山の中にあるんだろうと思った。

 昭雄は壁に掛けてある若い女の肖像画を見た。優しそうで綺麗な人だと思った。

「この人、誰?」

 二郎は筆を止めて振り返った。「ああ、それは、お前のお婆ちゃんだよ」

「随分、若いね」

「うん、若い時にね、病気をして死んじゃったんだよ」

「お婆ちゃんもその場所、知ってるの?」昭雄は二郎が描いている絵を指さして聞いた。

「うん」二郎は若い頃の妻の顔を苦しそうに見つめていた。「お婆ちゃんも知ってるよ」

「僕も大きくなったら、そんな山を絵に描こう」

「そうか‥‥‥お前も絵画きになるか」二郎はまた優しい目をして昭雄を見ながら、何度もうなづいていた。

「僕、絵画きになるよ」

 二郎が描いていた絵と今、昭雄が見ている風景が重なる。






13




「疲れたわ」と椅子に座ってポーズをとっている夕子が言った。

「もう少しだよ」と昭雄は夕子を描いている。

「あたし、うまく描けてる?」

「うん‥‥‥」


 秋の海、波打ち際を歩いている昭雄と夕子。

 夕子、昭雄に水をかける。

「つめてえ‥‥‥こらっ」

 笑いながら逃げる夕子。

 追いかける昭雄。

 夕子を捕まえる昭雄。昭雄に捕まる夕子。

 笑う二人。

 抱き合う二人。

 海に落ちる夕日。


 二十一本のローソクが燃えている。

 ローソクの光りに浮かぶ幸せそうな昭雄と夕子の顔。

 夕子、ローソクを吹き消す。

「おめでとう」

「サンキュー」

 グラスとグラスが「チン」と鳴る。


 夕暮れ時の公園。

 噴水のそばのベンチに座っている昭雄と夕子。

「今日の映画、よかったわね」

「うん‥‥‥よかった」

「ラストの別れのシーン、素敵だったわ」

「そうかな‥‥‥ちょっと、物足りなかったような気がするけどな」

「そんな事ないわよ‥‥‥映画のような別れ方したら素敵でしょうね」

「現実と映画は違うさ」

「そうね、違うわね。でも、あなた自身、あまり現実的じゃないみたいよ」

「そんな事ないさ」

「でも、あなたはそれでいいのよ」

「夕子‥‥‥お前、やっぱり‥‥‥あいつと一緒になるのか?」

「ええ。あたしとあなたは結局、うまく行かないみたい。きっと、そういう運命なのよ」

「‥‥‥」

「もう、あなたとは二度と会わないと思う」

「‥‥‥わかったよ」

「元気で‥‥‥」

「うん、元気でな」

 夕子、立ち去る。

「さよなら‥‥‥」

 一人残る昭雄。

 辺りは暗くなり、街灯の光の中で一人座っている昭雄。


 昭雄は石の上に空を見上げて寝ている。

 スケッチブックには夕子の顔が描いてある。

 昭雄は起き上がり、スケッチブックの夕子の顔を見つめた。

「馬鹿野郎」と小さく呟くと夕子の顔を破き、丸めて滝に向かって投げ付けた。


酔中画2-Y070


第一部 月影 14.15.
2007年07月05日(木) 13:02

14




 山道を歩いている昭雄。

 行き止まりにぶつかり、首を傾げながら来た道を戻る。

 草に隠れた細い道を歩いている昭雄。

 辺りは暗くなりかけている。

 道がなくなり、目の前に崖が現れる。崖の下を覗く昭雄、仕方なく、来た道を戻る。

 夜になり、道もない森の中をさまよい歩く昭雄。

 目の前を白い人影が通り過ぎた。昭雄は後を追って人影に近づく。

 女である。白いギリシャ時代の着物のような物を着ている。

「ちょっと、すみません」と昭雄は声を掛けた。

 振り返る女。ラーラである。ラーラが昭雄をからかおうと人間の姿をした妖精に化けている。

「道に迷ってしまったんですけど、月見村はどちらでしょうか?」

 ラーラ、昭雄を上から下まで眺めてニコッと笑う。

「月見村はどちらか、ご存じありませんか?」

「あなた、人間?」とラーラはとぼけて聞いた。

「えっ?」

「人間なのね」

「ええ、人間ですけど、お化けにでも見えますか?」

「いいえ‥‥‥わたし、人間と話をするの、初めてなのよ」

「えっ? あなたは人間じゃないんですか?」

「ええ、わたしはこの山の精です」とラーラは白い服をなびかせて踊り出す。

 どこから、ともなく静かに音楽が流れて来て、二人の回りを妖精たちが踊りだした。昭雄には何も見えないし、ただ風の音しか聞こえない。

「からかわないで下さいよ。月見村はどっちです?」

「さあ?」とラーラは昭雄にウィンクをした。

「あなたは何してるんです、こんな所で?」

「散歩よ」

「今頃?」

「そうよ、今日はいい天気じゃない。綺麗な三日月が出てるわ」

 昭雄、三日月を見てからラーラの顔を見る。昭雄にはラーラの存在が理解できない。理解できないが彼女に興味がある。こんな夜、山の中を一人で散歩している女の人がいるわけがない。しかも、古代調の服を着て、自分は山の精だと言う。俺はキツネにでも化かされているんだろうか?

 ラーラは微笑を浮かべながら昭雄を見ていた。

「いつも、今頃、散歩してるわけ?」

「ええ、そうよ」

「月見村はどっちです?」

「知らないわ」

「あなたはこの山に古くからいるんでしょ?」

「そうね、そうかもしれないわ。でも、まだ、いないかもしれない」

「何言ってんです。あなたは気違いですか?」

「気違い? わたし、人間じゃないのよ」

「月見村は? 教えて下さいよ」

「月見村がどうしたの?」

「帰るんです」

「なぜ?」

「なぜって、そこに泊まるんです」

「なぜ?」

「別に理由なんてないですよ」

「それじゃあ、帰ったってしょうがないじゃない」

「あなたはどこに住んでるんです?」

「この山よ」

「山のどこ?」

「決まってないわ。どこでもいいのよ」

「なぜ?」

「理由はないわ」

「馬鹿な事、言ってないで教えて下さいよ。あなただって、これから家に帰って寝るんでしょう。僕はもう疲れてるんですよ。早く、宿に帰りたいんです」

「わたしには家なんてないわよ」

「それじゃあ、どこで寝るんです?」

「眠くなった所で寝るわ」

「へえ、毎日、野宿してるわけですか?」

「野宿? それが自然じゃないの? あなたはなぜ、帰る理由のない所にわざわざ帰らなければならないの? わたしには行く所はあるけど、帰る所なんてないわ」

「そういえばそうだけど‥‥‥」

「ところで、あなた、本当に人間なの?」

「さあね、人間である理由は別にないけど、やっぱり人間でしょう」

「不思議ね、あなたにはわたしが見えるのね?」

「見えますよ、頭の先から足まで‥‥‥でも、よく、そんな薄着で寒くないですね‥‥‥まさか、幽霊じゃないでしょう?」

「違うわ。幽霊は過去のもの。わたしは未来のものよ」

「未来?」

「あなたはきっと、わたしの先祖なのよ」

「よせやい、馬鹿馬鹿しい」

「それじゃあ、あなた、わたしの仲間が見える?」

「仲間?」

「ほら、あそこで踊っているでしょ」

「‥‥‥何もいないじゃないか」

「あなたの名前は?」

「自分から先に言えよ」

「わたしにはまだ名前がないのよ」

「記憶喪失にでもなったのか? 嘘ばかりつくなよ」

「ねえ、教えて」

「石山昭雄」

「イシヤマアキオ‥‥‥わかった。わたしのお爺さんよ、あなたは」

「あんた、やっぱり狂ってるな」

 ラーラは片手を胸に当てて昭雄を見ている。

「あなたに面白いものを見せてあげるわ。ついてらっしゃい」とラーラは言うと山奥の方に歩き出した。

「何だい? 面白いものって」昭雄は立ったまま、ラーラの後ろ姿に尋ねた。

「何してるの? 怖いの? 早く来ないさいよ」

 ラーラは後を振り返りもせず、さっさと歩いて行く。昭雄は彼女に吸い込まれるかのように彼女の後を追った。


酔中画2-Y043







15




 西の空に三日月がいる。

 山の中の細道をラーラと昭雄が並んで歩いている。月の光で昭雄の影はできるがラーラの影はない。

 昭雄はラーラの横顔を見た。彼女は何かを考えているような顔をしていた。

「あんた、頭はちょっとおかしいけど、わりと美人だね」

「ありがとう」とラーラはニッコリと無邪気に笑った。「あなた、奥さんを殺して来たんでしょ?」

「何言ってんだよ」昭雄には、とても彼女の話の飛躍にはついて行けない。

「俺はまだ独り者だよ」

「そう、まだ殺してないの」

「俺は気違いじゃないぜ。人なんか殺すわけないだろう」

「ところが殺すのよ」

「殺すわけない」

「あなたは奥さんを殺すの」とラーラは決めつけた。

「そうかい‥‥‥俺はあんたが殺したくなってきたよ」

「それは無理よ。わたしはまだ存在してないもの」

「俺の前に実際にいるじゃないか」

「あなたがいると思ってるだけよ」

「それじゃあ何か、俺はこんな山の中で一人芝居をしてるわけか? それじゃあ、まるで、俺は気違いじゃないか」

「そうかもね‥‥‥でも、もしかしたら、あなた自身も存在してないんじゃないの。ただ、いると思い込んでるから、いるだけなのよ」

「ふん」と昭雄は言うとラーラの肩を抱いた。

「やっぱり、ちゃんと存在してるじゃないか」

「あなたがいると思っている限り、わたしは存在してるわ」

「しかし、随分、冷たいな」

「人間じゃないもの」

 昭雄は薄気味悪くなって、ラーラから手を離す。おびえたような目でラーラを見る。

「怖がらなくても大丈夫よ。あなたを食べたりしないから」とラーラは昭雄の肩にさわる。

「ちょっと待ってくれよ」と昭雄はラーラの手を払う。「本当に食べないでくれよ」

 ラーラはニコニコしている。

「一体、俺をどこに連れて行くつもりだ?」

「血の池よ」
第一部 月影 16.17.
2007年07月06日(金) 15:35

16




 ラーラと昭雄は森の中から、小川のほとりに出て来た。

 辺りは月の光に照らされて意外な程、明るい。

「へえ、こんな所にこんな綺麗な所があったのか?」昭雄は感心して辺りの風景を眺めている。

「今はないわ」とラーラは言った。

「えっ?」

「この景色はね、五十年位前の時よ」

「あんたと話してると俺まで頭がおかしくなってくるよ」

「あなたはね、頭の中に、ある基準を勝手に作っているから頭が混乱するのよ。もっと頭を柔らかくしなさい。そうすれば色々なものがわかるわ」

「ここで何が起こるんだ?」

「もうすぐ始まるわ。ゆっくり見物しましょう」

 ラーラはかたわらの石に腰掛けた。昭雄も隣に座る。

 月に照らされて、小川は光りながら流れていた。

「景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」

「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。

「月見酒でしょ」とラーラはどこからか、一升どっくりを出す。昭雄は呆れて声も出ない。

「いつも、あなたは酒をぶらさげて散歩してるんですか?」

「そうよ。わたし、お酒、大好き」とラーラは言って、ラッパ飲みする。

「ああ、おいしい」と幸せ一杯の顔をした。「あなたも飲む?」

 昭雄もラーラから、とっくりを受け取り、一口飲んでみる。何とも言えないうまさだった。日本酒のようで、ブランディのようでもあり、今まで飲んだ事がない味がした。しかし、アルコール度はかなり強かった。

「うまいでしょ?」

 昭雄はうなづいた。「うまい。こんなうまい酒、飲んだ事ないよ」

「そりゃそうよ。この大自然が作り出したお酒よ。人間なんかに作れるわけないわ」

「自然が作っただって? それじゃあ、まだ、いっぱいあるのか?」

「あるわ、たっぷり。わたしが死ぬまで飲んでも飲みきれない程ね」

「どこにあるんだよ、教えてくれよ」

「駄目。これを人間に飲ませたら大変な事になるわ。昔から、よく言うでしょ。不老長寿のお酒があるって。これが、そのお酒よ」

「それじゃあ、これを飲むと死なないのか?」

「そうね、何百年も生きられるでしょうね。でも、このお酒が欲しいという人間に殺されちゃうから、結局、同じよ。百年も生きられないでしょ」

「うん、そうかもしれないな」と昭雄はもう一口飲む。

「うまい‥‥‥」

「そんなに飲むと後で腰が立たなくなるわよ」ラーラは昭雄から、とっくりを奪い、自分で飲む。

「ああ、いい気分だ‥‥‥景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。うまい酒もある。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」

「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。

「殺しよ」とラーラは笑いながら言う。

「ちょっと待てよ。せっかく、いい気分になってるのに、何が殺しだよ。もっとロマンチックな事を言えよ」昭雄はラーラから、とっくりを取り、一口飲む。突然、ハッとしてラーラを見る。ラーラは相変わらずニコニコしている。

「ちょっと聞きたいんだけど、まさか、俺を殺す気じゃないだろうな?」

「フフフ」とラーラは笑う。「あなたを殺したら、わたしは永遠に存在しなくなるじゃない。それより、楽しく飲みましょう」

 ラーラはまた、とっくりから酒を飲み、幸せ一杯と無邪気に笑う。そんな顔を見ていると昭雄には彼女の口から『殺し』なんて言葉が飛び出して来るとは、とても思えない。ただの可愛い女にしか見えない。昭雄はラーラを抱き寄せた。

「さっきより冷たくなったみたいだぞ」

「あら、そう‥‥‥まだ、お酒が足りないんじゃない」とラーラはとっくりを昭雄に渡す。

「そうだな」と昭雄は酒を飲む。酒はうまい。景色もいい。隣の女も最高だ。しかし、昭雄は考える。彼女の体温の冷たさは、今が夏だったら気持ちいいだろう。毎晩、彼女を抱いて寝ればぐっすりと眠れるだろう。だが、今はまだ陽気が寒い。彼女を抱いて寝たら、俺は氷にされてしまう。

「やっぱり、あんたは人間じゃないな」

「まだね‥‥‥あなたの孫よ」

 昭雄はラーラから離れた。離れたくはないのだが、限界を感じたのだ。彼女を抱いていた手は冷えきって軽い凍傷のようになっていた。昭雄は慌てて、息を吹きかけたり手をこすったりした。

「あなた、酔うと踊る癖があるの?」とラーラは笑いながら言った。

 小川の向こう側に、若い男と女が現れた。男は昭雄の祖父、二郎。女は昭雄の祖母、美枝子である。

「誰か来た」と昭雄が言った。「馬鹿に古臭い格好をしてるな」

「あの二人はね、あなたのお爺さんとお婆さんよ」

「まさか?」

「あの二人は、この山で知り合ったのよ」

「どっちの爺さんと婆さんだ?」

「あなたのお母さんの方よ」

「お袋のお袋は若くして病死したって聞いたけど」

「見てればわかるわ」





17




「気持ちいい」と美枝子は小川のほとりにしゃがみ、手を水の中に入れて言った。

 二郎は美枝子の後ろ姿を優しく見守っている。

「冷たいですか?」

「ええ‥‥‥見て、月が映ってますわ」

「三日月ですね」と二郎は美枝子の隣にしゃがみ、川の中で遊ぶ美枝子の手を見ている。

「お爺さんは絵画きだったな」と昭雄は言った。「昔、お婆さんの若い頃の肖像画を見た事がある」

「わたしに似てた?」とラーラは言う。

「似てるわけないだろう」と昭雄は言ったが、よく見ると似ているような気もする。

「わたしね」と美枝子が言った。「前にも一度、ここへ来たような気がしますわ」

「いつ頃ですか?」と二郎は美枝子の横顔に聞いた。

「わかりません‥‥‥もしかしたら、夢の中だったのかもしれませんわ」

「そういう事、よくありますよ」

「何となく、懐かしいような気がします」

「いい景色ですね」

「彼女のお母さんがね」とラーラは言った。「彼女がまだ、おなかの中にいる時、ここに来た事があるのよ」

「ほんとかよ」と昭雄は本気にしない。

「ええ、ほんとよ。あなたはなぜ、この山に来たの?」

「何となく、絵になりそうな気がしたからさ」

「あなたの一族は必ず、この山に来るわ。何かに引っ張られるようにして」

「俺のお袋も来たのか?」

「ええ、小さい頃、あなたのお爺さん、ほら、あの人よ、あの人に連れられて何回か来たわ」

「俺は一度もお袋から、そんな事、聞いた事もない」

「あなたのお母さんは嫌な事を知ってしまったのよ。それで、この山の事は思い出さないようにしてるの」

「嫌な事? 何だい、それ?」

 二郎と美枝子は石に並んで腰掛け、小川の流れを見ていた。

「わたしね‥‥‥」と美枝子は言った。

「えっ?」と二郎は美枝子を見る。

 美枝子は小川を見つめたまま、「何でもないの‥‥‥」と小さく呟いた。

「美枝子さん‥‥‥」

「何ですか?」と美枝子は顔を上げて二郎を見る。

「‥‥‥」二郎、美枝子を抱き締める。

 二人は石になったように身動きもせずに抱き合っている。

 突然、二郎が消える。

「何だ?」と昭雄は瞬きをする。「どうして、あの男は消えたんだ?」

「それはね」とラーラは酒を一口飲む。「それはね、彼女の心の中で、あの男が消えちゃったのよ」

「なぜ?」

「冷めたのよ、二人の仲が」

「いつだ、それは?」

「子供ができてからみたい。あなたのお母さんがね」

「どうして?」

「そんな事、知らないわよ。いくら、わたしだって人の心の中まで覗けないの」

「ほら」とラーラは昭雄にとっくりを差し出す。「そんな細かい事、いちいち気にしないで、もっと大きくなりなさい」

 昭雄はとっくりをラーラから引ったくり口に持って行く。

「空っぽじゃないかよ」

 ラーラはゲラゲラ笑う。

「この酔っ払い女め、勝手な事ばかり言いやがって」

「もう一度、口に当ててみて、今度はちゃんと入ってるわよ」

 昭雄は疑いの眼でラーラを見ながら、とっくりを口に持って行く。彼女の言う通り、酒は入っていた。

「やっぱり、あんたは女ギツネだな」

「そうよ。わたしは可愛い女ギツネよ。あなたをからかってんの」

「勝手にしろ!」

 美枝子は一人、石に腰掛けたまま川を見ている。そこに新たな男が登場。麗子の祖父、義夫である。義夫の方に振り向く美枝子。

「あなた、どこに行ってらしたの? 突然、消えたりして、わたし、とても心細かったのよ」

「何を言ってるんだい。君が喉が渇いたって言うから水を捜しに行ってたんじゃないか」

「そうだったかしら。わたし、随分と長い間、ここで待っていたような気がするわ」

「君は大袈裟だよ。ほんの一、二分だろ」

 義夫は水筒を美枝子に渡すと隣に座った。

「さっきから八年後よ」とラーラは言った。

「何?」と昭雄は驚く。「八年もあそこにいたのか?」

「まさか、これは彼女の思い出なのよ。彼女の心の流れを再現しているの」

「へえ、便利なもんだな。人の心を勝手に、こんな所で公開なんかしてよ、あんたは大した演出家だよ」

「うるさい。静かに見てなさい」とラーラは昭雄を睨んだ。

 昭雄はゾクッと寒気を感じておとなしくなる。

「わたし」と美枝子は言った。「喉なんか渇いていません」

「ここは」と義夫は言った。「君の思い出の場所なのかい?」

「ええ、わたしが生まれた所、わたしが結婚した所、そして‥‥‥」

「君はここで生まれたのか?」

「そんな気がするだけよ」

「だから、ここを死に場所に選んだわけか?」

「えっ? 何を言ってるの? わたし、まだ死にません」

「君こそ何を言ってるんだよ。僕と一緒に死のうって約束したじゃないか。今になって急に気が変わったのか?」

「そんな約束してないわ、わたし」

「君が約束したから、二人して、こんな山奥まで来たんじゃないか。君がここで死にたいって言ったんだぜ」

「嘘よ。わたし、まだ死なないわ。子供だっているし、夫だっているもの」

「僕だって、子供もいるし妻もいる」

「それなのに、なぜ、死ななければならないの?」

「もう、それしかないんだよ。僕らに残ってるのは」

「いいえ、わたしには、まだ夢があるのよ」

「夢? どんな?」

「‥‥‥言えないわ」

「もう手遅れさ。すべて、もう駄目だよ‥‥‥死ぬしかないんだ」

「わたしね、さっき、一人の時、色々考えてたの。もう二度とここには来ないんじゃないかって気がしたわ」

「そうさ。僕らはもう、二度とこの山にも来ないし、あの腐った都会にも帰らない。ここで、二人だけで静かに死んでいくんだよ」

 美枝子は首を横に振りながら、義夫の顔を見つめる。義夫はゆっくりとうなづくと水筒から水をコップに移した。ポケットから薬を出すとコップの中に溶かした。

「何、それ?」

「これを飲めば、眠るように死ねるんだ」

「わたし、まだ眠くないわ」

 義夫はコップを美枝子の手に握らせる。美枝子はコップを両手で包むようにして口元まで持っていき、コップの中の水を見つめた。

「月が‥‥‥」

 コップの中の水にちょうど三日月が映っている。

「それを飲めば、楽になれるんだよ」

 美枝子はしばらくコップの中の月を見つめていたが、急に水を投げ捨てた。

「わたし、三日月なんて飲めないわ」

 義夫は思い詰めたように美枝子の顔を見つめている。

「ねえ、やめましょう‥‥‥ねえ、もう帰りましょう。子供が待ってます」

 美枝子、コップを置き、立ち上がろうとする。義夫は素早く、美枝子の首をつかんで絞める。

「やめて! わたし、まだ死なないのよ」

「一緒に死ぬんだ」

「いやよ、やめて‥‥‥」

「やめろ!」と昭雄は怒鳴った。

「駄目よ」とラーラはたしなめた。「あなたの声は聞こえないわ」

「俺が行って止めてやる」

「駄目よ。あなたはあの世界には入れないのよ」

 美枝子はもがき苦しんでいる。

 美枝子はぐったりと動かなくなる。

 美枝子は死んだ。

 死んだ美枝子を呆然と見ている義夫。荒い息をしながら水筒に手を伸ばし、水を浴びるように飲む。ポケットからタバコを出すと死人の前でちょいと一服。タバコを投げ捨てると美枝子を石の上に寝せ、着物を直してやる。乱れた彼女の髪を綺麗に直し、静かに眠っているような安らかな顔を優しく撫でながら、義夫は独り言をブツブツ言っている。

 ようやく、義夫はポケットから薬を出して口の中に入れた。水筒を口に持っていくが中は空だった。辺りを見回し、コップで小川の水をすくうと目をつぶって一息に飲み干した。ゆっくりと美枝子の隣に行き、横たわる。美枝子の横顔を見つめ、そして、空を見上げ、次に並んでいる二人の姿を見る。まだ、右手にコップを持っているのに気づき、コップを投げ捨て、美枝子の手を握ろうとするが、急に顔を歪めて体を丸め、両手で腹を押さえたまま、ガクッと死んだ。

 並んだ二つの死体。

 やがて、死体は消えた。死体の跡に黒い影が残る。
第一部 月影 18.19.
2007年07月07日(土) 12:51

18




 昭雄は川のほとりに立って反対側を見つめていた。石にはまだ黒い影が残っている。

 ラーラは石の上にあぐらをかいて酒を飲んでいる。

 昭雄はラーラの方に振り返って言った。

「あれは本当なのか?」

「ちょっと違うけどね、まあ本当よ」

「ちょっと違うって?」

「あれはあなたのお婆さんの思い出なのよ。だから、自分の都合のいいように美化しているの」

「お婆さんはあの男に絞め殺されたのか?」

「本当は二人とも薬で死んだらしいわ」

「全然、知らなかった」

「もっと過去までさかのぼれば色々と面白い事がわかるわ」

「あの男は一体、誰なんだ?」

「あなたの奥さんのお爺さん」

「俺はまだ結婚なんてしてないよ」

「あら、そう。でも、あなたは麗子という女と一緒になるのよ。そして、彼女を殺すの。さっきの男みたいに」

「嘘だ! そんな事、わかるわけがない」

「わかるのよ。わたしが生まれてから先の事はわからないけど、過去の事は全部わかるの」

「なぜ?」

「わたしはまだ魂だけなのよ。肉体を持ってないの。だから、過去の事は一切見えるのよ」

「なぜ、肉体があると見えないんだ?」

「わからないわ。でも、人間ていうのは都合の悪い事はすべて忘れてしまうのよ」

「それじゃあ、生まれてすぐの時はどうなんだ?」

「生まれてすぐの時はまだ、過去が見えるはずよ。でも、未来に向かって生きて行こうとするの。過去の事なんて必要なくなるのよ。過去なんて実体のないものだから、それより、お母さんのおっぱいの方が嬉しいのよ」

 昭雄の祖父、二郎が十歳位の女の子を連れて、小川の反対側に現れた。

「ほら、あなたのお母さんが来たわよ」

 昭雄、振り返って、二郎と女の子を見る。

 女の子は小川で遊んでいる。二郎は石に腰掛け、スケッチを始めた。すでに、黒い影は消えている。

「人間は死んだらどうなるんだ?」と昭雄はラーラに聞いた。

「知らないわ、そんな事。地獄に落ちて苦しむんでしょ」

「ちゃんと答えてくれよ」

「知らないのよ、ほんとに。わたしはまだ生まれていないし、死んでもいないのよ」

「麗子とか言ったな。なぜ、俺がお婆さんを殺した男の孫なんかと一緒にならなけりゃならないんだ?」

「そう決まってるのよ」

「誰がそんな事、勝手に決めたんだ?」

「自然よ」

「自然?」

「人間は神って呼んでるんじゃないの」

「神? 俺は神なんて信じてないよ」

「でも、自然が決めたのよ。さっきのあなたの奥さんのお爺さんが、あなたのお婆さんと心中するのも、あなたが奥さんを殺すのも、すべて、自然が決めて、人間はただ、その通りに動いてるだけよ」

「自然なんて言ったって、大して力なんか持ってないじゃないか。人間はどんどん自然を破壊している」

「それも自然が決めた事、人間は自然を破壊したり、勝手に作り変えたりして、自然を支配してるつもりだろうけど、それは人間の思い上がりよ。人間自身が自然の一部なのよ。自然の一部に過ぎないものが、自然を支配できるわけないでしょ」

「もし、みんな決められているんだったら、人間は何のために生きているんだ?」

「自然の一部として役割を果たしているのよ」

「たった、それだけのために、毎日あくせくと生きてるわけか?」

「そうよ。でも、人間は何も知らないわ。みんな、一生懸命、生きてるじゃない」

「あらかじめ、決められたコースをか?」

「ええ、あなたはそれではつまらないとでも言うの?」

「当たり前だろ。自分の未来がすっかり決められてるのに生きる馬鹿はいないさ」

「それはそうよ。だから、みんな、未来の事は知らないのよ。一秒先の事だってわからない。ただ、自然だけが知っているのよ」

「自然て、一体、何なんだ?」

「そんな事、わかるわけないでしょ。人間ていうのはわからないものがあると勝手に言葉を並べてわかったような振りをしてるけど、あれは本当にわかっているわけじゃないのよ。わからないと不安なのね」

「面白くないな。人間て、そんなちっぽけなものなのか?」

「それは仕方のない事よ。人間は鳥のように空は飛べないし、魚のように海では生活できないし、決められた範囲の中で生きていくしかないのよ。たとえ、それがあらかじめ決められた生き方だったとしても、未来の方に向かって生きて行くのね、死ぬまで毎日」

「もし、俺が麗子なんて女と結婚しなかったら、どうなる?」

「わたしはいなくなるわ。でも、そんな事は絶対にありえないの」

「ふん。俺はそんな女と結婚なんかしないぞ、絶対に‥‥‥」

「好きにしなさい」

 ラーラは立ち上がると、とっくりをぶら下げて森の中に入って行った。

「どこ行くんだ?」

「あなたの未来を見せてあげるわ。興味あったらついてらっしゃい」

「俺の未来?」

 昭雄はしばらく、スケッチしている二郎と小川で遊んでいる女の子を見ているが、ラーラの後を追って森の中に入って行く。





酔中画3-E018




19




 原生林に囲まれて綺麗な小さな沼がある。

 小枝の先に綺麗な小鳥が止まって月を見上げている。

 林の中からラーラと昭雄が出て来る。

「見て」とラーラは小鳥を指さした。「ねえ、綺麗でしょ」

「うん、あんな綺麗な鳥、見た事ないよ」

「あの鳥はね、あなたの祖先よ。ずっと昔の事だけど」

「俺の祖先は鳥だったのか?」

「もとは人間だったのよ。彼女はこの沼で死んだの」

「自殺か?」

「いいえ、違うわ。この沼で水浴びしてたら、波に飲まれて溺れ死んだのよ」

「こんな小さな沼で溺れ死んだ?」

「昔はもっと大きかったのよ。この沼にはね、竜が住んでると言われてたの。この辺に住んでた人たちは誰も近づかなかったわ。彼女は隣村の男の人と恋をしてね。彼女の村とその人の村っていうのが仲が悪いのよ。それで、二人は誰も近づかないこの沼で逢い引きする事にしたの。彼女はいつも、彼に会う前にここで水浴びしてたのよ」

「男の方はどうなったったんだ?」

「彼女は沼の奥深くに沈んじゃったんで、彼には彼女が死んだっていうのがわからなかったわ。しばらく待っていたけど、彼女が現れないので仕方なく帰ったの。そして次の日、彼女の村の人たちが、彼女を返せって彼の村まで押しかけて行ったわ。そして、戦争よ。彼は戦死したわ」

「ふうん‥‥‥それで、あの鳥は?」

「彼女の霊が小鳥に生まれ変わったのよ。そして、この沼、自分の命を奪っただけでなく、恋人や村人たちを戦争に追いやった、この沼に復讐しようとしてるの」

「復讐?」

「ええ、この沼を埋め尽くそうとして、毎日毎日、小枝や小石をクチバシで運んで来ては、この沼に落としてるの」

「小枝や小石で、この沼を埋め尽くすだって?」

「彼女は毎日、やってるわ」

「そんな事、できるわけないじゃないか」

「でも、何千年と掛かって、大分、この沼も小さくなったわよ」

「何千年‥‥‥気の遠くなるような話だ。この沼を埋めるまで、毎日、やるつもりなのか?」

「彼女に聞いてみたら?」

「鳥がしゃべるかよ」

「ただの鳥じゃないわ。あなたの祖先よ」

「そうか」と言って、昭雄は鳥の側まで行く。

 鳥は昭雄の方に振り向いた。昭雄は軽く頭を下げた。

「あの、あなたは僕の祖先ですか?」

 鳥は何も言わない。ラーラの方を見る昭雄。ラーラはもう一度、聞いてみろと合図する。

「失礼ですけど、あなたは僕の祖先なのですか?」

「知りません」と鳥は可愛い声で言った。

「あなたは何をしてるんですか?」

「疲れたから休んでいます」

「毎日、小枝や小石をこの沼に運んでいるんですか?」

「ええ、そうです」

「大変ですね。もう、どの位、やってるんですか?」

「忘れました。ずっと昔からやっています」

「この沼を埋めるためですか?」

「そうです」

「なぜ?」

「考えた事もありません。わたしはこれをやらなければならないのです」

「それじゃあ、これからもずっと、やっていくんですか?」

「ええ、この沼が埋まるまでやります」

「この沼が埋まったら、どうするんですか?」

「考えた事もありません。今は小石や小枝を運ぶだけです」

「そうですか‥‥‥」

「失礼します」と鳥は飛び立って行った。

 飛んで行く鳥を見ている昭雄。

 ラーラは切り株に座って、酒を飲んではニコニコしている。

「あんたね」と昭雄はラーラを見ると言った。「ちょっと飲み過ぎじゃないのか」

「いいじゃない」とラーラは笑う。「あんたもやれば」

 昭雄も酒を飲み、鳥が飛んで行った方の空を見る。

「毎日毎日、あんな事をしていて楽しいんだろうか?」

「他人にはわからない事よ」

「あの鳥、もし、この沼が埋まったら、どうするんだろう」

「きっと、この沼は永遠に埋まらないのよ。だから、あの鳥も永遠に仕事を続けて行くと思うわ」

「うん、そうかもしれない」

 鳥がクチバシに小枝を挟んで戻って来て、沼に小枝を落として、また飛び去った。

「悲しい話だな。永遠に埋められないものを埋められる日を夢見て、毎日毎日、埋めようと努力している‥‥‥まるっきり、無駄じゃないか」

「そうね。無駄ね。でも、みんな無駄な事をやってるのよ。少しでも夢に近づこうとして」

 昭雄はラーラの顔を見る。

「これは心の問題だけどね」

「心?」

「そう、心よ。心っていうのはね、無限なの。宇宙みたいなものよ。果てがないの。永遠なもの。頭で考えれば、すべてが無駄なものよ。でも、心で見れば、無駄なものなんて一つもないのよ。すべてがあるべきようにあるの」

「心か‥‥‥」

「たとえば、あなたは今、絵を描いてるでしょう。あなたは真実を描こうとしている。そうでしょう?」

「真実? よくわからないな。でも、描きたいものがなかなか描けない」

「真実っていうのは、あなたの心なのよ。あなたは、そのつかみ所のない心を絵にしようとしてるのよ。心っていうのはね、みんな、同じようなもの。たった一つのものよ。形のないもの。そして、どんな形にでもなるもの。あなたがあなたの心を絵に描けば、他の人がそれを見ても何かを感じるはずよ。絵って、そういうものじゃないの?」

「うん、わかるような気もする」

「頭でわかっても駄目よ。心で感じなくちゃ」

「心か‥‥‥」

 鳥がまた飛んで来て、小枝を沼に落として飛び去る。

「そあ、行きましょう」

「うん」

 ラーラと昭雄、林の中に入って行く。

 ピヨピーピーと小鳥が飛びながら鳴いた。
第一部 月影 20.
2007年07月08日(日) 11:26

20




 ここは森の中。

 ラーラの仲間たち、人間たちは妖精と呼んでいるが、彼女たちが薄い着物をなびかせながら踊っている。

 フェラという名の風の精は竪琴を弾いている。横笛を持ったローダという名の木の精が近づいて来る。

「ラーラはどこ行ったの?」とローダが聞いた。

「さっき、人間と一緒にいたよ」とフェラは答えた。

「また、人間と?」

「うん。また人間をだましてるんだよ」

「もの好きね。ねえ、フェラ、戦争でも見に行かない?」

「戦争? 人間たちの戦争?」

「そうよ。また、始まったのよ」

「この前も、あんたと一緒に行ったけど、つまらなかったわ」

「あれはもう、ずっと昔じゃない。今の戦争はあの頃と全然、違うのよ。弓矢や刀なんかで戦わないの。戦うのはみんな機械よ。人間はただ、ボタンを押してるだけなの」

「そんなんじゃ、余計、つまらないじゃない」

「それが面白いのよ。ただ、ボタンを押しただけで、街なんか跡形もなくなっちゃうのよ。その街に住んでいる人間なんて、何も知らないうちに、みんな死んじゃうわ。人間が苦労して建てたビルも車も電車も、みんな消えちゃうのよ」

「嘘! そんな事、できるわけないよ」

「ほんとよ。ほんのまばたきをしてるうちに、何もなくなっちゃうの。ほら、ずっと昔、まだ陸地ができたばかりの時があったでしょ。あの時みたいになっちゃうの」

「まさか?」

「ほんとだってば、行ってみればわかるわ」

 ユーナという水の精が二人の話に割り込んで来る。

「何の話、してんの?」

「戦争の話。人間たちの戦争よ」

「何だ、つまんない」とユーナは踊りながら去って行った。

「ねえ」とフェラはローダに言う。「さっきの話、本当なの? みんな消えちゃうって」

「ほんとなのよ。あたしだって見るまでは、とても信じられなかったんだから」

「そう、ほんとなの‥‥‥ねえ、それじゃあ、あたしたちで、そのボタン、みんな押しちゃおうよ」

「あたしもそう思ってたの。人間なんて、みんな死ぬといいんだわ」

「そうよ。昔はよかったわ。あたしたちは好きな所にいられたわ。今はこんな山奥に隠れてなくちゃならない」

「そうよ。また昔のようにしましょう。地球ももうすぐ死んじゃうけど、最期くらい、あたしたちの自由な世界を作りましょう」

「でも、人間ていうのは馬鹿な事ばかりしてるのね。地球の命だって、もうあまりないんだから、ほっといても人間なんて滅びるのに、何も自分たちで自分たちを滅ぼす事もないのに‥‥‥まったく、どうしようもない馬鹿ね」

「人間ていうのは何でも自分たちでやらなけりゃ気がすまないのよ。ちっぽけなくせに王様きどりでいたいのよ」

「でも、可愛い所もあるのよ」

「フェラ、あんた、最近、ラーラに影響されてんじゃないの?」

「そんな事ないよ。あたしも初めの頃は面白くて、人間をからかってたけど、もう飽きちゃった。ラーラはよく飽きもせずに続けられるわ。感心するよ」

「ラーラなんか置いて行きましょ」

「うん、面白そうね」

 フェラとローダ、消える。

 楽しそうに踊っている妖精たち。


酔中画2-Yo25 酔中画2-Y064 酔中画2-Y026

第一部 月影 21.22.
2007年07月09日(月) 10:18

21




「さっきから黙り込んで、何を考えてんの?」とラーラは昭雄に言った。

 二人は森の中の細い道を歩いている。

「あんたはさ、何でもわかっているようだけど、俺の考えてる事はわからないのかい?」

「わかるわよ。どうやって、あたしを口説こうかって考えてたんでしょ」

「馬鹿、そんな事、考えちゃいないよ」

「あら、そう。こんな美人を目の前にして、あんた、口説こうともしないの?」

「口説いてどうするんだよ。あんたを抱いて、俺は凍死するのかよ」

「それ、いいわ。美女を抱きながら死ぬなんて最高よ」

「俺はまだ死なないよ」

「そうよね。あなたはこれから麗子って女と一緒になって平和な家庭を作るんですものね。そして、子供を生んで‥‥‥」

「ちょっと黙っててくれないか。頭が混乱してるんだよ」

「そう、つまんないの」とラーラは酒を飲む。「あなた、今、頭の中を一生懸命になって整理してるんでしょ」

「ああ」

「混乱してるものはほっときなさい。自然と落ち着く所に落ち着くものよ。無理に考えをまとめて、自分で納得なんかしたって、どうなるわけでもないわよ」

「そうかもしれないけどさ、混乱していて何も頭に入らないよ」

「気にするからいけないのよ。頭なんか、ほっとけばいいのよ。必要なものはちゃんと頭に入るし、用のないものは自然と忘れていくものよ」

「簡単に言うけど、あんたには頭なんてないんだろう」

「そうよ。心だけよ、わたしは」

「心、心っていうけど、心なんて一体、どこにあるんだよ?」

「心に形なんてないわ。心はあなたの体の中、どこでも自由に動いているのよ。頭を使っている時には頭に、手を使っている時には手に、また頭の先から足の先まで全身に広がっている時もあるわ。まれには体からはみ出して回りに影響をおよぼす時もあるのよ」

「ますます、頭が混乱してきた」

「それは、あなたの心が頭の方に行き過ぎてるからよ。もっと下に下げなさい、心を」

「どうやったら、そんな事できるんだ?」

「やめるのよ、考える事を」

「俺は考えをまとめないと落ち着かないんだよ」

「そう。それじゃあ、あなたの未来を見る前に、いい所に連れてってあげる」

「どこだい?」

「どこでもいいでしょ。わたしとデートできるんだから」

「それは嬉しいんだけどさ、その冷たい体、何とかしてくれよ。せめて、人間と同じ体温にさ」

「黙って」

 ラーラは後ろから両手で昭雄の目をふさいだ。

「ワイイワカ、ドケダン、ゲンニナ、カバワタナア」と呪文を唱えるとラーラは消え、昭雄は気を失ったまま立っている。





22




 何もない広い砂漠の上に三日月が出ている。

 ラーラと昭雄が突然、現れる。ラーラは昭雄の目から両手を離す。昭雄は辺りを見回す。

 二人の影はない。

「ここはどこだ?」と昭雄はラーラに聞いた。

「月の上よ」

「嘘つくなよ。月はちゃんとあそこにあるじゃないか」

「あれは地球」

「地球があんなに小さいわけないだろう」

「あれは地球よ。あなた、地球を見た事あるの?」

「ないけどさ。地球はあんなに小さいのかよ」

「そうよ。地球なんて小さいものよ。人間はあんな小さな地球にいて、つまらない事にくよくよしてるんだわ」

「ここは本当に月か?」

「そうよ」

「月の砂漠って歌はあるけど、月に砂漠なんてあったか?」

「あなた、月に来た事あるの?」

「ないけど、写真で見たよ。確か、岩ばかりだったぜ」

「岩もあるけど、砂もあるのよ。わたしを信じなさい」

「月には空気もあるのか?」

「ないわよ」

「でも、俺は生きてるぜ」

「今のあなたは魂だけよ。わたしと同じにね」

 昭雄は自分の体を見る。そして、両手で体に触ってみる。

「肉体だって、ちゃんとあるじゃないか」

「そう思っているだけよ。あなたの肉体はあそこよ」とラーラは地球を指さす。「森の中にあるわ。今頃は犬に食われてるわ」

「冗談はよせよ。俺はまだ生きていたいよ」

「大丈夫よ、心配しないで。それより、あなた、あの地球を見てどう思う?」

「ほんとに、あんな小さな星の中に人間が住んでいるのか?」

「人間がどんなものか、わかったでしょう。人間なんて、いたっていなくたって、この宇宙の中では全然、問題じゃないわ。たとえ、地球がなくなったとしたって大した事じゃないのよ」

 昭雄は空の星を見渡している。「うん。大した事ないな。でも、何で人間なんているんだろう」

「地球には空気があるわ。空気を吸うためにいるんじゃないの」

「うん。多分、そんなところだろう」

「人間はちっぽけなものよ。でも、大きさや形なんて無意味なものよ。宇宙全体から見れば太陽だって目に見えない程、ちっぽけな存在でしかないわ。その宇宙だって、もっと大きなものから見れば、ちっぽけな存在なのよ。でもね、人間の心は無限に広がる事ができるのよ」

「うん、わかるよ。何だか急に自由になったみたいだ」

「肉体がなくなったからよ。頭がなくなったからよ。頭っていうのは色々な物を記憶してるわ。色々な知識をね。でも、そのお陰で、人間は不自由になっているのよ。色々な事が固定観念として頭にくっついているの。そのいい加減な固定観念を組み合わせて、物事を考えたりするから、余計、変な結果になるの。それと感覚っていうのもあるわ。あれも大して役に立たないのに、人間はそれを信じきって使っているわ。確かに、使い道によっては素晴らしい道具よ。でも、人間はそれを充分に使ってないわ。目なんて見ようとしなければ何も見えないし、耳だって聞こうとしなければ何も聞こえないわ。それに言葉の問題もあるわ。人間は言葉っていうものを信じすぎるのよ。単なる記号に過ぎないのに。言葉なんて不自由なものよ。何かを表現してるようで、何も表現してないのと同じよ。人間は感覚を充分に使いきっていないくせに、その感覚の代わりになる物を色々と作り出しているわ。心なんて形がないから信じない。感覚は大切にしまっておく。考える事も動く事も機械に任せておく。人間はそのうち、植物のようになるわ。それも一番みにくい植物にね」

「そうだな。でも、人間がこんな風になったのも自然が決めた事だろう?」

「人間も自然の一部なのよ。人間にも責任があるわ」

「人間はどこで間違った方向に進み出したんだろう」

「わからないわ。でも、人間は行き着く所まで行くわ。人間が滅びる所までね。絶対に途中では気がつかないわ。滅びる時になるまで、絶対に気がつかないと思うわ」

「うん」

 三日月の形をした地球を見ているラーラと昭雄。

「さあ、今のあなたはまったくの自由よ。どこにでも好きな所に行けるわ。魂の散歩に出掛けましょう」

 ラーラ、昭雄の手を取る。

 消える二人。
第一部 月影 23.24.25.
2007年07月10日(火) 10:15

23




 ここは雲の上。

 綿のような雲、ガラスのような雲、氷のような雲、虹色の雲などが一面をおおっている。

 ラーラと昭雄が仲良く散歩している。

「凄いな‥‥‥」と昭雄は実感を込めて言った。

「自然が作り出した美よ」とラーラは言った。「でも、作ろうとしてできたものじゃないわ。自然にできたものよ。自然だけが美というものを作り出す事ができるの。人間の心が自然と一体化した時に初めて美が生まれるのよ」

 回りの景色を感激しながら見て歩く昭雄。雲が切れて、大きな穴があいているのも知らずに歩いている。

 昭雄はふと下を見る。地球が見える。こんな所に立っていていいのだろうかと思う。昭雄は落ちる。かろうじて、雲につかまって、穴にぶら下がる。

「助けて!」

 ラーラ、昭雄の所に行き、手を引っ張ってやる。

「ああ、危なかった」

「馬鹿ね。今のあなたは魂だけなのよ。空中だって歩けるわ。落ちると思うから落ちちゃうのよ」

 ラーラ、穴の上を平気で歩いてみせる。

「ほら、落ちないじゃない」

 昭雄、恐る恐る穴の上に右足を出してみる。

「大丈夫よ」

 昭雄、左足も空中に出す。

 穴の上に立っているラーラと昭雄。

「ほんとだ、すげえや」

「面白い」と言って、昭雄はいい気になって空中を歩き回る。

 地上の広々とした荒野に原始時代の男が現れる。弓を背中に背負い、腰に革を巻き付け、石の斧を持っている。

「あっ、人間だ!」昭雄が気づいてラーラに言った。

「あなたの先祖ね」とラーラは男を見ながら言った。

 男は疲れきった様子で荒野をさまよい歩いている。男の名前はヤマツミという。後に山の神となった。

「あの男は何してるんだ?」

「あの男は女を捜してるの」

「女? 女に逃げられたのか?」

「あんたじゃあるまいし」

「何だと?」

「夕子って娘、どうなったの?」

「うるせえ。そんなのどうだっていいだろ。今はあの男の話だよ」

「彼はね、その女を一度しか見た事がないのよ。ある時、狩りをしていたら偶然に会ったのよ。でも、その女にはもう男がいたの。それで彼は一度は諦めたんだけど、どうしても諦めきれなくて捜し始めたのよ」

「へえ、一目惚れってわけか」

 さまよい歩くヤマツミを見下ろしているラーラと昭雄。






24




 弓を杖代わりにして荒野を歩いているヤマツミ。恨めしそうに太陽を睨む。



 草むらの中に小川が流れている。

 ヤマツミが今にも倒れそうな足取りでやって来て、川の前にひざまづくと、頭ごと水の中に突っ込んで水を飲む。

 しばらく、川のほとりで横になっている。



 夕陽を浴びながら、魚を生のまま、かじっているヤマツミ。



 広い草原の中、旅を続けているヤマツミ。



 丘の上に立ち、回りを見回しているヤマツミ。



 森の中、小川で水を飲んでいる親子の鹿。

 親鹿を弓矢で狙っているヤマツミ。

 矢が親鹿の胸に刺さる。逃げる親子の鹿。

 後を追うヤマツミ。血の跡を追いかける。

 倒れている親鹿。

 親鹿から矢を抜こうとしている女がいる。女の名前はカヤノという。後に野の神となった。

 ヤマツミはカヤノに近づく。

 振り向くカヤノ。

「アアアアアア」とヤマツミはカヤノに声を掛ける。

 カヤノ、目を見開いて、ヤマツミを見つめる。

 互いに見つめ合っているヤマツミとカヤノ。

「ウウウウウウ」とヤマツミはカヤノに言う。

 カヤノは強く首を横に振り、その場から逃げる。

 ヤマツミ、カヤノの後を追う。

 逃げるカヤノ。

 追いかけるヤマツミ。



 カヤノは逃げて来て、小川のそばにある洞穴の中に入って行く。

 ヤマツミは追いかけて来て、洞穴の前に立つ。

 洞穴からカヤノが男に寄り添いながら出て来る。その男の名前をキタカという。後に神になれずに死んでしまった。

 キタカはヤマツミに帰れと手で合図をする。

 ヤマツミは首を横に振り、右手に持った石斧を突き出す。

 キタカはカヤノの顔を見つめる。

 カヤノは静かに首を振る。

 キタカ、カヤノから離れて、石の斧を構え、ヤマツミと向かい合って立つ。

 二人の男を見守るカヤノ。

 ヤマツミ、斧を振り上げ、キタカに飛び掛かる。

 傷だらけになって戦うヤマツミとキタカ。

 戦う男たちを静かに見つめているカヤノ。

 勝負はなかなかつかない。

 ようやく、ヤマツミがキタカの頭に斧を振り下ろす。

 キタカは死ぬ。

 ヤマツミ、立ち上がって、カヤノの方に行く。

 カヤノもヤマツミの方に近づいて来る。

 見つめ合うヤマツミとカヤノ。

 ヤマツミ、カヤノを抱きしめる。

 カヤノ、ヤマツミの傷口を優しくなめる。

 寄り添いながら洞穴に入って行くヤマツミとカヤノ。

 頭を割られて死んでいるキタカ。

 ハゲタカが空で騒いでいる。


酔中画2-Y064







25




 雲の上に腹ばいになって、地上を見下ろしている昭雄。

 隣でラーラは酒を飲みながら、雲をちぎっては丸めて、地上に投げて遊んでいる。

 昭雄、何かを言おうとしてラーラを見るが何も言わない。

 互いに見つめ合うラーラと昭雄。

 ラーラは優しく微笑する。

 うなづく昭雄。

 上を見上げれば降るような星。

 西の空には三日月。

 寄り添いながら楽しそうにデートを楽しむラーラと昭雄。


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