人間に興味を持った妖精のラーラが現在過去未来と遊びながら、少しづつ人間を理解していきます。
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第三部 無住心 8
2007年09月19日(水) 14:23




 暗闇の中で五郎右衛門は座禅をしている。



 慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の合戦、起こる。五郎右衛門、八歳。

 囲炉裏を囲んで、八歳の五郎右衛門と父、母が粗末な食事をしている。

 家の外はやけに騒がしい。

「この騒ぎはいつまで続くんでしょうねえ」と母が言った。

「もう少しの辛抱だ」

「戦(いくさ)なんて早く終わってくれればいいのに」

「どこで、戦をやってるの?」と五郎右衛門は母に聞いた。

「遠くの方よ」

「じゃあ、ここは関係ないね?」

「ここは大丈夫じゃ。心配しなくてもいい」

「おおい、開けろ!」誰かが入り口の戸を叩きながら怒鳴った。

 母親は五郎右衛門をつれて、土間の隅にある筵(むしろ)の中に隠れる。

「開けろ! こら、開けろ!」侍たちは戸を叩きながら騒いでいた。

 父親は戸を開ける。

「何をしておる。さっさと開けんか」と酔っ払った足軽が三人、入って来た。

「おい、酒はあるか?」

「申し訳ございませんが、お酒はありません」

「なに、酒がないだと」と酔っ払いは父親を小突いた。

「それじゃあ、女を出せ」と別の酔っ払いが言った。

「女もいません」

「嘘つくんじゃねえ」と酔っ払いは土足のまま板の間に上がり、家の中を荒らし回った。

「やめてくれ」と父親が言っても小突かれるばかりである。

 とうとう、母親と五郎右衛門は見つかってしまう。

「いい女じゃねえか」と酔っ払いは母親に抱き着いた。

「おっ母に何するんだ」と五郎右衛門は飛び掛かるが、蹴られて転んでしまう。

「やろめ!」と父親は棒を手にして、酔っ払いに飛び掛かった。

「うるせえ」と一刀のもとに父親は斬られてしまう。

 母親は悲鳴を上げるが身動きができない。

「畜生!」と五郎右衛門はもう一度、飛び掛かるが投げ飛ばされて、そのまま気を失ってしまう。

 気がついた時には、母親はあられもない姿で死んでいた。

 両親の葬式を済ませると、村人たちが止めるのも聞かずに五郎右衛門は旅に出た。

 ただ、強くなるんだ。強くなって、あいつらを殺してやるんだと思いながら‥‥‥



 五郎右衛門は腹をすかして、道端に倒れていた。

 五郎右衛門は女に助けられた。もし、この女が普通の女だったら、彼の生き方も大分、変わったに違いない。

 その女は彼に対しては優しかったが、厳しくもあった。まだ、八歳だった彼は母親のように、その女になついた。しかし、その女は盗賊の頭(かしら)だった。荒くれ男どもを顎(あご)で使う勇ましい女だった。当時の彼には、その女がどうして、男たちにお頭と呼ばれているのかわからなかった。今、思えば、忍びの者だったのかもしれない。ともかく、五郎右衛門は三年余りの間、盗賊たちと一緒に過ごした。彼にとって、それは楽しい日々だった。

 彼はそこで初めて本格的に剣術を習った。荒くれ男ばかりだったが、彼らも根っからの盗賊ではない。関ヶ原の落ち武者である。戦に負けて浪人となったが、食う事もままならず、自然の成り行きで食いつめ浪人たちが集まるようになった。この集団もその一つである。

 楓という女を頭に、浪人たちが五十人近くも集まってできている。五郎右衛門が剣術を学ぶのに丁度いい環境といえた。理屈抜きの実践剣法をみっちりと仕込まれた。みんなから、かなり荒っぽく、こき使われたが、強くならなければならないと必死に堪えていた。

 そこでの生活で、彼は徳川家康という男の存在を知った。

 荒くれ男たちは『家康を倒せ!』と口癖のように言っていた。

 初めのうちは、家康という男が何者なのか全然、わからなかったが、彼らと付き合って行くうちに、少年の彼にも関ヶ原の合戦を始めた張本人が家康だったという事がわかって来た。彼の両親の仇は三人の酔っ払った足軽から、徳川家康という男に変わって行った。

 あっと言う間に三年の月日は流れた。五郎右衛門は十一歳になっていた。

 その日、お頭の楓(かえで)は何人かを引き連れて、いつものように仕事に出掛けた。そして、それきり帰って来なかった。罠(わな)に掛けられて殺されたという。この隠れ家も危ないというので、みんな、慌てて逃げて行った。

 五郎右衛門は取り残された。

「連れてって!」と泣きながら追いかけたが、馬に追いつけるわけはなかった。

 当てもなく、五郎右衛門は歩き続けた。



 次に彼を助けてくれたのは、一人暮らしの浪人だった。浪人は村はずれに住んでいた。

 腹をすかせた五郎右衛門は食べ物のいい匂いに誘われて、その浪人の住む小屋に行った。

 小屋の中を覗くと、浪人が木を削って何かを彫っていた。五郎右衛門はなぜか興味を引かれて、腹の減っているのも忘れ、熱心に浪人の仕事を見ていた。ただの木の塊(かたまり)が、浪人の手によって猫の形になって行った。招き猫である。

「坊主、面白いか?」と浪人は言った。

「面白い」と五郎右衛門は答えた。

 それが縁だった。彼は浪人から彫り物を教わる事となった。彫り物だけでなく、剣術も仕込まれた。新陰流の最初の師はこの浪人であった。

 浪人の名は大森勘十郎と言った。過去の事はあまりしゃべらなかった。でも、そんな事はどうでもよかった。なぜか、彫り物を彫るという事が楽しかった。

 剣術よりも、むしろ、木を彫っていた方が好きだった。しかし、剣術の稽古は毎日やった。剣術を教えている時の勘十郎は、まるで別人になったかのように厳しかった。

 勘十郎に打たれて気絶する事も何度かあったが、そんな事で親の仇(かたき)が討てるかと言われると、なにくそっとなって、決して、へこたれなかった。

 五郎右衛門の剣術の腕は見る見る上達して行った。体格も大きくなり、十七歳になる頃には勘十郎と互角の腕になっていた。

「もう、わしに教える事は何もない。お前には剣の素質がある。伸ばそうと思えば、いくらでも伸びる。わしの兄弟子で小笠原源信斎(げんしんさい)という人が今、江戸で道場を開いている。お前は源信斎殿の所に行って、剣を学べ」

 五郎右衛門は勘十郎の言う通り、江戸に向かった。

 江戸はまだ新しい都で、活気に溢れ、見る物すべてが田舎出の五郎右衛門には珍しかった。彼は源信斎のもとで剣術の修行に励み、江戸という新しい都で色々な事を学んだ。



 慶長十九年(一六一四年)、五郎右衛門が江戸に来てから五年が過ぎた。また、大戦(おおいくさ)が始まろうとしていた。

 東西の決戦、大坂の陣である。

 五郎右衛門は急いで大森勘十郎のもとに向かった。勘十郎からは何も言って来ない。しかし、彼にはわかっていた。勘十郎は浪人をしながら、この日が来るのを待っていたのだ。西軍に与(くみ)して一旗あげる事を‥‥‥五郎右衛門も勘十郎に付いて行く覚悟を決めていた。

「どうして、戻って来た?」

「父と母の仇討ちです」

「いいじゃろう。戦で本物の肝(きも)を鍛えろ」

 大森勘十郎と五郎右衛門は大坂に向かった。そして、五郎右衛門は見た。十四年前の関ヶ原の合戦の時、足軽どもが村人を襲い、略奪の限りを尽くしていたのと、まったく同じ光景を‥‥‥

 大坂に向かう食い詰め浪人たちは『お前らのために戦に行くんだ』というのを大義名分にして、村人たちに対して好き勝手な事をしていた。五郎右衛門は腹を立て、やめさせようとしたが、どうにも止める事はできなかった。いくら、彼の剣が強くても、何十人もの浪人たちを止める事は到底できなかった。

 五郎右衛門は大森勘十郎は真田幸村のもとで徳川軍と戦う事になった。

 五郎右衛門はこの戦で初めて人を殺した。人を殺すという事は余りにもあっけなかった。そして、戦という大きな力の中では、人を殺すという事に対して、何の抵抗も感じなかった。五郎右衛門は面白いように人を殺して行った。

 大森勘十郎は戦死した。

「戦がどんなものかわかったか? お前は、こんなくだらん戦なんかに巻き込まれてはいかん。犬死になど絶対にしてはいかん。本物の剣の道に生きるんじゃ」

 それが勘十郎の最期の言葉だった。

 大坂冬の陣は講和という形で終わった。



 五郎右衛門は旅に出た。

 翌年の夏、再び、大坂の陣があったが、彼は戦には参加しなかった。

 そして、その翌年、徳川家康は死んだ。

 五郎右衛門はただひたすら、剣術の修行をしていた。諸国を巡り、他流試合を何度もしては勝ち続けて来た。

 そして、今、山の中で座り込んでいる。


関ケ原から大坂の陣へ

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